不登校・引きこもりからの大学進学塾

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不登校・引きこもりに関連する「賢い教育」の受け方

客観的視点と冷静な現状分析に加え、社会の足を引っ張り続ける社会主義系既得権益層を鋭く批判する姿勢から、城繁幸さんの論評は私も非常に好意的に見ております。その中に面白い話題がありましたので、紹介をば。

「企業が博士を採用したがらない理由」

https://news.yahoo.co.jp/byline/joshigeyuki/20180824-00094289/

高校の同期に、東大理系現役入学・博士課程・大手製薬研究員という、何か色々とコンプリートしてる友人がいまして、確か彼の結婚式に出席したときの話だったと思うのですが、

「いや、本当に就職は怖かった。修士ならまだしも、博士まで行くと流石に怖い。専門も狭まるし、入社タイミングは遅くなるし、大学の研究でその差を埋められるかどうか分からないし、景気悪いとどんな採用されるか分からないし。就職失敗したら本気でどうしようかと……」

とのこと。

幸い、彼の心配は杞憂に終わり、今では分かりやすいエリート研究員として平和な家庭を築いている普通のパパな訳ですが、これだけの好条件を揃えた学生であっても、博士選択は怖い。

特に大きいのが、年齢的遅延。進学上は何の遅延が無くとも、社会に出るタイミングの遅さが、どうしても不利になるわけで、在学中の成果と本人の人格、教授との相性、そして何より景気循環を見据えて遅延以上のパフォーマンスを見せないことには、「ただ漫然と勉強しただけのダメな人」という扱いになってしまう。これが、彼の恐怖の根幹にあるのでしょう。

 

テーマは若干ずれますが、しかしこの事実は、何らかの遅延のある不登校・引きこもり当事者にも同様のことが言えます。即ち、「受ける教育の品質問題」です。

少なくとも「教育」を受けるなら、その教育によって確実に何らかの成長があり、その成長が後の人生に有効性の高い影響を与えて初めて、教育の価値が出るわけです。ただ、「学位が欲しいから」とか、「学歴があった方が良いから」のような発想でいると、

「とりあえず大学入るか。どこでも良いから、入りやすい私大文系Fランで」

「入ってみたけど、空気合わないし、中学生レベルの勉強してるし、何のために行ってるのか分からない」

「大学なんて意味ないわ、辞める。アホくさい」

なんて展開になります。

このような幼稚な判断をする引きこもり当事者は、実はかなり多く、彼等は口々に大学の無意味さを語りますが、そもそもの問題は、そんな大学へ何も考えずに入学した本人達に原因があるわけです。稚拙な判断能力と見通しの甘さが全ての元凶であり、形式論でしか考えられない愚かしさが見て取れます。

逆に賢い当事者は、入学前の段階から、進路に関するアセスメントをきちんと行っていて、入学までの費用と入学~卒業までの費用、そして、その後の生活水準や保証の程度を事前に調べ、自分にとって十分なメリットがあるときのみ、進学を選択します。メリットがないなら、そもそも教育など関与せず、資金獲得のために仕事をする。これが、教育に対する本来のあり方でしょう。

 

私は教育分野の人間ですが、教育という方向性を全面肯定したりはしません。世の中には、学生のための教育と言うよりは、寧ろ講師の生活を守るための無意味な教育もあり、学生の社会参画的には全く無価値にもかかわらず、講師側の論理で教育が推奨されることもあるためです。

参加希望の子の面談をした際に、こんな話がありました。

「以前少し行っていた塾では、専門学校しか行かないような子に、必要の無い授業をいくつもさせていました。しかも、その専門学校が声優養成みたいな将来性の無いところなのに、『それは良い! 頑張れ!』と無批判に薦めるんです。その後どうなるかなんて、少し考えれば誰でも分かるのに、教える側がそれを止めないんです。先生が馬鹿なのか、そうでもしないと収益にならないのか分からないですけど、流石におかしいと思って辞めました。

第一、専門学校前提なら塾はいらなくないですか? 『その専門学校行くなら、すぐそっちに入った方がいいよ』と薦めるのが普通だと思うんですけど。自分も、『是非ウチに入ろう! お薦めだし、愉しいことが一杯あるよ!』と急かされて勢いで入りましたけど、実際は聞いてたのと全然違ったし、その段階でおかしいと気付くべきでした」

これなんかは、典型的な講師都合の教育です。

講師都合の教育には、

1:そもそも必要が無いのに押しつけられる教育

2:受けたにしても、ほとんど何のメリットもない教育

の二つがあります。上記の例では、「必要の無い授業をいくつもさせる」が1に、「声優養成の専門学校」が2に該当します。

1に関しては、講師の生活を支えるためだけに発生している教育で、全く無意味です。見つけ次第、すぐに止めましょう。進路先に関係しないのに、妙にアレコレ薦めて来るのは、大体がこのケースです。

2は、学習環境には身を置きますので、一見すると意味ありがちですが、卒後の状況を精査することで、大筋は分かります。尚、子供の側で「この分野が好きだから通いたい!」のように言われても、卒後のメリットが無い無意味な進路なら、親の側できちんと止めるべきです。ナアナアで済ますことが、そもそもの悲劇の始まりです。

投入資金の割にリターンの少ないカテゴリとしては、「ゲーム」「アニメ」「ファッション(モード関連全般)」「無試験で入れる大学」があり、どれも社会情勢の分からない子供達には人気があるため学校は存在しますが、出口がほとんど存在しません。

不登校や引きこもり当事者の場合、現状での所属組織が無い分、人生の先行きに直結する「進路先の選択」はいくら精査してもし過ぎることはありません。教育資金の上限を考えてみても、「とりあえずここでいいか。楽だし」なんて安易で適当な判断など、普通は出来ないはずです。

 

不登校や引きこもりから進学を検討するなら、まず最低限として

1:その教育は本当に自分のためになるのか?(講師都合の教育になってないか?)

2:その教育は、後々の自分の自立のためになっているか?(コストパフォーマンスは良いか?)

の二点は真っ先に注意して、無意味な費用をかけず、自分にとって最高の成果が得られるように確認しましょう。

それに加え、

3:教える側の品質は大丈夫か?(学力が低いor経験の乏しい講師に当たってないか?)

4:表面的な謳い文句と内部の実情が一致しているか?(広告だけが巧みなところは注意。)

5:卒業生の進路先と、卒業生-講師間の関係は良いか?(変なところは、卒業生が寄りつかない。)

まで分かれば、変な結果にはならないでしょう。

教育分野の人間が言うのもおかしな話ですが、教育は無敵ではありません。同時に、手間とコストに加え労力と時間も掛かる、非常に地道で、ときに大変面倒な作業です。そしてそれは、学生にも講師にも等しく同じことが言えます。

それ故、教育を妙に賛美する人は、少々怪しいと思いましょう。教育に対する無批判な賛美は、現場を知らない人間が行うアジテーションであり、ただの広告に過ぎません。まして、一度躓きがある不登校・引きこもり関係者なら、尚のこと注意すべきです。

教育には可能性がありますが、支払う額に対してリターンがどの程度なのか、必ず検討して下さい。「無意味な教育を見抜く目」を養うことは、未来の自分を守る一つの手段でもあるのですから。

小さな幸せに勝るリラックスは無いなあ……。

金木犀が香る季節になりました。朝晩のちょっとした冷え込みから、秋の気配を感じる今日この頃。日本の四季の素晴らしさを感じられる、日常のひとときです。

 

忙しさにかまけていると、部屋も散らかり、埃も積もります。ピョコピョコ飛び回るウサギと戯れながら、ハタキをかけてルンバを回し、バイクと車のメンテナンスを終えると、もう既に夕方近く。良いワインがあったことを思い出し、近所の鮮魚店で盛り合わせをお買い求めナリ。今日は、鰯の刺身が美味しそうです。

 

弟から貰ったギーゼキングのピアノソナタをかけて、テラスのテーブルに出てみると、微かに夏を忍ばせる陽光が、山の端を薄く照らしています。

古い友人の奥さんから贈られた手作りのワイングラスと、若々しいシャブリの冷たさに、鈴虫の音が重なり始める頃にはすっかり気分も落ち着いて。手すりに寄りかかり、遠隔操作に長けたSONY製HDDレコーダーの利便性がよぎるあたり、何か色々可笑しいのですが、それはそれでご愛敬。

 

満ち足りた顔をして、腕の中でひっくり返っているウサギに、

「お前との付き合いも長くなったなあ……。今の生活はどうだね?」

と語りかけると、

「満足」

とのお返事。無表情のウサギも、最近はよく笑顔で話すようになりました。

 

「お誕生日プレゼント美味しかったです。ありがとうね」

「実習終わった。今度帰るよ」

母と妻からのメールに返事をすると、酔い心地が眠気を誘います。何とも愉快な休暇かな。

 

日々の速度が速い分だけ、ときたま発生する緩い時間のありがたさが身に沁みます。

どうにも、今の日常は素晴らしい。今後もこれが続くことを期待して。

スイス機械産業の伸長は、発達障害系引きこもりの助けとなるか?

ちょっと前の話で手元に記事が無いのですが、グランドセイコーやクレドールで有名なSEIKOが、水晶発振のクォーツ式時計や、先端技術を駆使した高機能時計の生産から、旧来型の手巻き・自動巻機械式時計の生産に力点をシフトするという記事を読んだことがあります。

所謂「クォーツショック」で、70年代にスイス機械式時計産業を壊滅に追い込み、世界を水晶発振時計で埋め尽くしたSEIKOでしたが、一見すると時代錯誤とも言えるこの経営判断を見るに、腕時計が実用品としての精度・機能性追求ではなく、装飾品としての美術・芸術性追求へと変わりつつある様を感じずにはいられませんでした。

確かに、世界経済に活気があるなら、単価1万円のSEIKO5を50個売るより、単価50万円のグランドセイコーを1個売った方が利幅も大きいのでしょう。SEIKOに市場を奪われた後、起死回生の生き残りをかけたスウォッチ・リシュモングループによるスイス時計界の再編が奏功し、ロレックスやパテックフィリップ、オーデマピゲ等の高級ブランドが、単価を上げながら利益を生み出している点からしても、潮流は寧ろそちらにあると言えます。周回差をつけて頂点に立ったのに、気がついたら最後尾についてしまった危機感がSEIKO経営陣の中にもあるのかも知れません。コモディティ化の悲劇と言えばそれまでですが、現実はそんなものなのでしょうか。

独自の高級ブランドに乏しいCITIZENが、スイスの中堅ブランドフレデリック・コンスタントを買収したという記事もありましたが、自社ブランドの育成か他社ブランドの運営かの違いがあるだけで、危機感の程度は同じだと思います。まだ、バッティングしにくいG-SHOCKを持つCASIOの方が、幾分気が楽かも知れません。

話を戻しましょう。微少量ではありますが、この「逆行」は、「ヒト付き合い」よりも「モノ付き合い」を好む職人的気質の引きこもり当事者にはプラスに働きます。無論、部分的に機械化が進み、全てただの手作業だけで、という訳には行きませんから、一定以上の教育水準は必要となりますが、それでも日々の仕事の形式としては相対的に心穏やかなものとなります。つまり、何らかの手工業従業員として生きていく方向です。

経験則上、一部の引きこもり当事者には、発達障害等の派生からか、特定の範囲で異様な集中力を発揮し、常人がなし得ないような成果を上げる人達がいることが分かっており、私も何度かその成果に驚かされたことがあります。CARPE・FIDEMにも、既にその方向性に舵を切って成功したり、手応えを感じ始めた卒業生もいますが、環境さえ整えば、その能力は現場での生産性向上に役立ちますし、優れているなら誰も何も文句を言うことは出来ません。特性を活かした天職にさえなり得ます。

元々、職人系の仕事には、人付き合いを好まない頑固な性質の「爺さん」がいたもので、当時はその概念が無かっただけで、手工業系の仕事には、元来今で言う過集中の発達障害系人材が適切だったのかも知れません。正に、適材適所の最たるものなわけですが、良くも悪しくも元の方向性に回帰したとも言えます。

菊野昌宏さんや浅岡肇さんのように独立時計師として活動されているケースもあり、生まれ持っての才覚と特殊能力がある場合には、そのような生き方もアリな気がします。(因みに、私はフィリップ・デュフォーのような、独立時計師による作品が大好きです。高くて全く手が出ませんが……。)

無論、不安定要因もあります。

確か、ネットの書き込みだったのでネタ扱いですが、ジラールペルゴの技術者が、消費者との対話か何の際に、

「無理な要望でも色々聞かせてくれ。もっとも、俺達の給料は安いけどなHAHAHA」

みたいな話があったそうで。言われてみればその通りで、高額な高級時計と言えど、その従業員が必ずしも高給取りとは限りません。実際、以下のデータを見るに、スイス時計産業界の給与中央値は全産業のそれを下回っており、本場スイスでさえ家内工業・工場制手工業的生産の限界が伺えます。

スイスの時計産業について知っておくべき六つのこと

また、一度壊滅した機械式時計が蘇ったにしても、その市場規模は決して大きくありません。スイス最盛期の輸出額でもせいぜい2兆5,000億円位しか無く、これは日本の化粧品国内市場規模程度でしかありません。市況が後退に向かえば、また昔のようなジリ貧を迫られるかも知れません。枠はあったにしても、多数の人間を養える程の規模はなく、あくまでドンピシャリ性質に適合し、活動自体が苦にならないような人達だけの話になるでしょう。

とは言え、既に上記手法で機能している部分もあり、成熟化した先進工業国が向かう先は何らかの有閑趣味でしょうから、これはこれで良い傾向ではないでしょうか。

以上の話題は腕時計に関するものですが、今後、同様の手仕事系への回帰傾向が他の産業分野でも派生する可能性があります。既に傾向が見られて、発展のあり得る分野としては、

腕時計(SEIKOクォーツ型→スイス機械式高級時計)

家具(ニトリ型大量生産家具→受注生産・古民具再生)

衣類(ユニクロ式ファストファッション→フルオーダー)

医療(保健診療→保険外診療)

教育(公教育→少人数式家庭教師教育)

音響(デジタル音源→レコード音源)

どれも産業規模としては小規模で、大規模なカバーは全く出来ませんが、全ての産業で同様の状況が発生すれば、総数としてはロングテール的に拡大する可能性は十分にあります。性質に適合する人は、一度検討してみても良いかも知れませんね。

夏の修学旅行(?)が終わりました。

例年、CARPE・FIDEMでは、希望者を集めて年に二回ほど泊まりがけで旅行に行きます。(因みに、通常の参加なら基本的な費用は全て無料です。)今年度は一回目が千葉へ二泊三日、二回目が長崎で三泊四日でした。参加者は全部で15名。丁度車二台に収まる範囲で、ほっと一安心です。

初日は夜到着ですが、初回から一室に集まって部屋飲み会を開催し、希望者が勝手に肝試しに行きます。二日目は軍艦島のツアーに参加して、市内観光巡りの後、更に夜は部屋飲み会。最終日はハウステンボスを一日かけて回り、夜は野球盤に人生ゲームと部屋飲み会。何か飲み会ばかり実施していますが、これはこれで大変好評でございました。新規参加の子達は、まだまだ顔なじみが少ないため、これをきっかけにして更に親睦を深めてくれたらと思います。

人「さっきの質問ですけど、逆に少年さんはどうなんですか?」

少「ふふ……ボカァね、何のかんの言っても結婚はすべきだと思うんですよ」

E「おい、どうした急に? 変なものでも食ったか?」

少「子供も持つべきだと思うんですよ」

ウィ「何か急に語り始めたぞ(笑)」

ベ「よ~しお前ら。訓練通りにやれ」

澪「少年君凄い! まだ18歳なのに! …… あ、おつまみ取って」

少「だってそうじゃないですか? 今は良いけど、年とって生活安定しても家族いなかったら、やること何もないじゃないですか? ダメなんですよ、結婚しないと!」

野「まあ、少カス君は大学でも速攻で彼女出来そうですしね」

ス「年下の子に負けた気がします~。あ、生ハムあります?」

ダ「あ、私にはワインを。そっちの……そう、それそれ」

映「良いですね良いですね~」

少「寂しい人生にならないように、事前に準備をしないとダメなんですよ!」

デ「自分はまず彼女からだな~」

富「デリカ君はまだ17だからいいじゃん! これからじゃん!」

ベ「よ~しお前ら。訓練通りにやれ」

合「意味分かんねえよ、少し黙ってろ(笑)」

一般的な学校に所属していても、修学旅行はあると思いますが、それのちょっと大人バージョンと言えるでしょうか。最終日は、貫徹で飲んでいた子達もいましたっけか? 上記の例は間抜けですが、話の内容も中々に高度で、理知的(?)な参加者が集まっていることを嬉しく思った次第です。今後も、恒例行事として続けたいところです。

CARPE・FIDEMの基本方針は、学習面では当然のことながら、物事を深く洞察しつつ、その年齢毎の課題を自分なりに解決出来るような自立性の養成です。

「不登校だから……」

「引きこもりなので……」

等という、さもしい言い訳をしなくても済むよう、個々人が自分の能力を高め、課題に積極的に挑み、一般的な進学ルートを取った子達よりも頭一個抜きん出た存在になることを目標にしていますが、これからの不登校・引きこもり支援は、それ位が普通になるかも知れません。特殊ルートであるが故に、特殊さを上手く活かした速い成長が望めますからね。

1人で出来ることには限りがありますが、周囲の子達から優れた発想を取り入れ、自分の血肉として受け入れることが出来れば、これは大変素晴らしいことです。泊まりがけで何日間も一緒にいると、普段出来ないような話もゆっくり出来ます。相互理解のきっかけとしては、今回も大成功と言えるでしょう。

これからはセンター試験に向けて準備が始まり忙しくなりますが、次回はどこに行きましょうかね? 思案のしどころです。

不登校・引きこもりで大人になった後のこと

「いや、違うんだ。今はもう、そういう状況じゃないんだ」

と言いたい記事が一つ

「明日の学校はムリかも」と迷っている人へ 中学3年生を丸ごと休んで得られた6つの結論」

https://news.yahoo.co.jp/byline/ishiishiko/20180902-00095018/

先に断っておきますが、私はこの筆者の方を毛嫌いしているわけでも、喧嘩を売りたいわけでもなく、ただ実直に、現実的要求の論点がズレ始めていることを語っておきたい訳で、その点はご承知おき下さい。

文章の内容はシンプルで、

○学校行かなくても、通信制高校とか大学とか、選択肢はたくさんあるから大丈夫。

○不登校でも、その後は仕事もあるし、普通の日常が待っているから大丈夫。

○周囲の大人達は、彼等のSOSに気付いて、相談窓口も利用しながら、命の確保を。

です。内容自体に全く嘘はなく、何一つとして否定する要因はありません。ごもっともです。

ただ、ここには決定的に足らない要素があります。記事を読んで、私も、

「ああ、やっぱりまだこの状況で止まっているんだな……」

と言わざる得ない隠れた問題点、即ち、

「結局、不登校経験者は、どのような社会人になっているのか?」

というテーマです。これは十年以上前からあり、未だにまともな解がない、厳密に言えば解はあっても、不登校経験者には都合の悪い解で、誰もが表面に出したがらない話題です。

状況を分かりやすく説明するため、かなり刺激的な話題ですが具体例を上げておきます。ここには特定の支援者を批判する意図があるわけではなく、純粋に不登校経験者の子達(解析能力に長けた子達)が、どのように支援者側を見ているのか、端的に示しているものだとご理解下さい。尚、対話で出てくる子は、今は医学部に在籍しているCARPE・FIDEMの卒業生です。

 

E「そう言えば、前に言ってた、居場所的なところはどうだい?」

卒「ああ、あそこはもう行ってないですよ。二、三回顔出しただけなんで」

E「何でまた? 慣れるまでは通ってればいいじゃない?」

卒「いや、いいっす。何か、いたたまれなくなるんで」

E「??? いたたまれないって?」

卒「いる人達が、ちょっと。自分が文句言えた話じゃないですけど……」

E「良く分からんな」

卒「言い方悪いけど、『この人達、大丈夫なのかな?』って。自分、学校辞めて、母親に言われてアチコチ行ってみたけど、大体どこも優しいんですよ。『大丈夫だよ、とか、心配ないよ』とか」

E「別にそれはええんでね?」

卒「まあ、そうなんですけど。でも、そこの主催者とか、ボランティアしている人とかの経歴とか、今の年齢とか、やってることとか聞くと、何か……」

E「???」

卒「言い方悪いけど、レベル低いんですよ。『大丈夫』って励ましてくれるのは嬉しいんだけど、その『大丈夫』って何? 死ななかったから大丈夫なのか、家から出られてるから大丈夫なのか……。ただ、自分が欲しい『大丈夫』って、そんなレベルじゃないんですよ」

E「ああ、そういうことね」

卒「元不登校の人とかがスタッフでいるんですけど、『仕事してないからボランティアで』とか、30歳過ぎで中卒社会経験無しとか、学歴が最高でもマーチで、しかも就活失敗とか……。自分達の体験談語るのは良いんですけど、それ全然参考にならないし。自分の失敗談聞けば、相手が安心するとでも思ってるんですかね?」

E「そこは君が批判すべき点ではないな。彼等だって、それなりの苦労はあるんだから」

卒「分かってますよ。でも、そんな人達に『大丈夫』とか言われて、Ecoさんは納得しますか? Ecoさんは経済力凄いから何とも思わないかも知れないけど、自分何も無いんですよ? 昔の高校の同期とか、今頃医学部とか東大とか早慶とか行ってて、社会でめっちゃ活躍すること分かってるんですよ。そこを、『大丈夫だよ。心配ないよ』とか言われても、こっちからすれば『あんたらの方が大丈夫じゃないだろ? 人生設計どうなってんの? 自分達が底辺化しつつあるのに、俺達現不登校の世話して悦に浸ってるだけで、自分達の問題二の次にして、大丈夫とか言ってんなよ』とか思う」

E「……」

卒「不登校とか陥ったら、結局どこかで元のルートに戻らないと、底辺でワープア確定じゃないですか? ネットで調べりゃ、そんなのすぐ分かるじゃないですか? 無教育で他より遅れてて、それでもまともな仕事あるなんて、誰が信じるんですか? 不登校じゃなくても、浪人と留年あるだけで就活に響くのに、何甘いこと言ってんの? あんた年収いくら? 社会保障どうなってんの? 厚生年金はあるの? 退職金は?」

E「気持ちは分かるが、外では言うなよ、そういうこと。僕がいつか言っとくから」

卒「それ位の分別はあります。あそこも『ありがとうございました』って言って出てきました。顔には出てたかも知れませんけど。自分、顔に出やすいんで」

E「君は賢いから、先が見えるんだろうさ。だが、人には言うな。分かっている人達だけで話せば良い」

 

内容が内容なので憚られますが、私は彼の意見は真っ当なものだと思っています。記事にも、

>2000円もするパフェが食べられたり

とありますが、今彼等が欲しているのは、そんな定性的な些末な話ではなく、不登校でどの程度の遅延があると、大体どの程度の学歴と就職状況で、どの程度の所得と社会保障が得られて、という定量化された現実です。完璧でなくても構いませんので、目安だけでも。せめて「30代で2,000万円台の家を建てました」なら、社会情勢を考えても、まだ安心を呼ぶでしょう。しかし、齢35になる不登校先輩が、後輩に語る「安心」の根底で「パフェ」を持ってくるようでは、逆に疑惑の温床になります。わざわざ記事にしてまで語る内容がその程度では、それ以上の誇れるものが無いかのような印象を受けてしまいます。不登校の子達は10代で子供のカテゴリに入るかも知れませんが、パフェ云々で通じる年ではありません。彼らは馬鹿でも阿呆でもなく、かなりシビアに社会を見ています。

また、

> さらに高校からは通信制高校というものがあり、月に1度から2度の登校で卒業できる学校もあります。試験だけを受けて「高校卒業」と同程度の資格が得られる制度もあります。大学も通信制大学が全国で43校もあり、いわゆるテスト競争をする「大学受験」はナシで入学できます。

とありますが、実際の実績を見れば分かる通り、通信制高校や通信制大学の卒後の就職先は、決して褒められたものではありません。第一、ロクにテストもせずに入れる教育機関に、どの程度の人間が集まるのか、容易に推察がつくではありませんか? 就職時に、採用側はどう判断するのでしょうか? 早慶や明治・立教・青山のような大学付属校ですら、就職時には付属上がりかどうかが人事側で話題になるのに、資格が同等だから「試験無しでラッキー」等という判断が通用するのでしょうか?

「道があるから大丈夫」と言いっ放しにするのではなく、本当にその道が大丈夫なのかどうか検証し、現実に先に繋がる道を提示するのが先人の義務でしょう。それこそ、万葉の昔から「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」の基本中の基本が、洋の東西を問わず語られている中で、流石にこれは浅慮に映ります。CARPE・FIDEMには、小学校から学校へ通っておらず、将来性を考えて医学部へ進学した子もいましたが、この子も、高校生の年齢から「社会情勢に対する考察の甘さは、結局自身の死に繋がる」と判断して学習を続けていました。見ている子は、先人達の無知さえ正確に見抜いているのです。

しかし、その辺が今の支援者側には見えていない。逆に、具体性のない立ち位置から出てくる安易な「大丈夫」が故に、かえって疑惑を生む結果になっています。

はっきり分かっているのは、今の日本で明確に階層化が進んでいる点です。昔は何となく適当でも大丈夫だった(ように見えた)かも知れませんが、今は大筋10~20代までの経歴で30代以降の流れはほぼ決まります。変えたくても、変えるルートもありませんし、変えるだけの能力を養成することが難しい。それ故、若年期の一年は大変な価値があり、頭の働く子はその点に危機感を抱いている。逆に、頭の働かない子は、後からその事実に気付くものの、気付いたときには手遅れである。

昔の不登校経験者が今は支援する側になっていて、彼等は牧歌的に「大丈夫」と優しく語りかけるのでしょう。しかし、そんな行為も段階的に意味を持たなくなってきています。本当に大丈夫だと言うなら、自分達の経済状況も含め体系化されたデータを開示する位の方が、より説得力があります。しかし、誰もそれをきちんと出さない。出したにしても、どうにも不安定さが残る立ち位置ばかり。何故なのか?

結局、不登校・引きこもりは、社会参画に不利にしか働かないということです。有利にするには、手段は二つだけ。

○何らかの教育ルートに極力早く戻る。

○何らかの分野で、自分の特技を活かして事業を始める

この程度です。しかし、後者は極めてハードルが高い。5年維持が25%、10年維持では10%しか残りません。しかも、私が見てきた不登校関係者の自営展開は、国や自治体からの補助金頼みのものが多く(NPO主体等)、気付いたら無くなっているケースも何度も見ています。NEET株式会社なんて洒落もあり、早々に潰れていましたが、不登校・引きこもりの依存体質が、ここでも問題となっていました。

元々自営業展開は成功率が低いため、一般論的には前者しか道がない。それ以外のルートを取れば、余程の幸運が無い限り、常時人並み以下の不安定さを抱えて生きることになる。詰るところ、結局は元の学校でなかったにしても、環境を変えて何らかの教育ルートに戻った方が楽ということです。それも、遅延の分だけ一段階上に上げて。

以前にも話しましたが、自殺防止の意味でのワンストップ戦略として、優しい「大丈夫」の価値は認めます。しかし、それにしては、「大丈夫」と語りかける方の側が本当に大丈夫なのかどうか疑わしく、場合によっては、「不登校先輩」そのものの生き方の善し悪しが、後輩側から問われているとも言えます。

私個人としては、「大丈夫」という言葉を語る側は、それなりの覚悟を持って語るべきだと思っています。でないと、その言葉の意味も価値も薄れ、未来のどこかで泥沼化します。「全然大丈夫じゃなかったじゃねえか!」と後輩達に言われたら、不登校先輩達は、一体何と返すつもりなのでしょうか?

少なくとも、以前私が調べた限りでは、不登校から通信制高校等を経由して社会に出た子達(つまりは、不登校の中でも中位層の群)の大半は、「まとも」とはほど遠い職場環境で仕事をしています。良くて零細中小企業の正社員(10~20%)、大半は単純労働系の派遣か契約社員(50%前後)で、アルバイト(30%前後)も普通。どれも、社会保障が脆弱で昇給もほとんど無く、待遇は中央値以下。不況期の首切りに怯えながら生きるだけで、専門職に関連する業種はまず見ません。それ以上の階層に上がっているのは、ほぼ全て中位以上の大学進学へした学生のみで、他はかなり控えめに書いても「転落人生」です。

少ない給与、乏しい社会保障、成長の無い日々。それが本当に「大丈夫」なのか? 上記のような単純労働は、既に外国人労働者に置き換わっており、日本人が行う必要性はありません。都内にいれば、コンビニの店員に外国人が多いことに驚かされるではありませんか? 先進国日本で生きる以上、ある線引きを越えた立ち位置に就くのは、いまや生存上の義務になりつつあります。目先の死を恐れるあまり当座の誤魔化しだけに終始し、別のタイミングでまた別の死、それも完全に改善策を失った上での死を叩き付けることになるのだとしたら、一体何のための支援なのか?

不登校経験者は、概して他人に甘いですが、同時に自分にも甘くなりがちで、結果、今回のような後輩からの突き上げを食らうことになります。何となくナアナアで、何となく優しくしていればそれで良しとされていた時代は既に過ぎ去っており、それ以上の具体策が求められる時期に差し掛かっていると考えます。

今回の文章の筆者の方は82年生まれで、私と同い年のようです。同じ社会を見て、同じ社会で生きてきた者として、より現実的な視点で後輩を導いてくれることを期待し、メディア関係者としての義務を果たして欲しいと強く願います。

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