不登校・引きこもりからの大学進学塾

ブログ

「1ml 1円の法則」と、山梨県産ワインの未来

不登校や引きこもりとは全く関係なかったのですが、以前掲載した、

国の豊かさとワイン考

が、何故か意外と好評だったので、無関係な話ですが、続きをば。因みに、知り合い向けに書いている部分もありますので、悪しからず。

 

まだ私が大学生のときの話ですが、ワインの買い方云々について、よく方々で議論をしておりました。

「安さこそ至高。高級ワインなんざクソ食らえ!」コスパ教原理主義者(極左系呑兵衛)

「テロワールを重んじることこそ、ワインの真の歴史を云々・・・・・・」中世から来た修道士

「別に、美味けりゃ何でも良いんじゃない?」ワインと日本酒何が違うの?派

等々、様々な意見が様々な年齢層から出て、愉しくワイワイやっていたのですが、一つの傾向に、あるとき気がつきました。

「飲み慣れている人ほど、低価格高品質なものを求め、初心者等、飲み慣れていない人ほど、高価なワインの蘊蓄を好む傾向にある」

これは丁度、ワイン文化が定着しているヨーロッパのレストランでは単価が安く(小売価格の1.2~1.5倍程度?)、定着が遅れた日本のような国のレストランほど単価が高い(小売価格の2倍以上)のと同じことで、生活に密着するほど消費頻度が増えるため、単価も下がる傾向にあり、「ハレの日のお祝い!」にしか抜栓しない場合等は、途方も無いご祝儀価格になるのと軌を一にしています。

ご多分に漏れず、私も20歳前後のときは蘊蓄優先の修道士で、何か新しい知識を手にしては同類の友人達と議論し、バルク購入もどきの買い方をする両親に向かって、偉そうにダメ出しをしたものです。

が、あるとき事実に思い至ります。

「3,000円/本を超えると、万単位のワインと同じ品質のものが普通に出て来ないか?」

つまり、ワインの品質と価格は実に綺麗な対数関数の関係になっていて、500円と1,000円の品質差は大きいものの、10,000円と100,000円の品質差はほとんどない。と言うか、分からない。分からない以上に、品種や濃淡等の好みや保存状態の問題の方が変数として大きい。なら、そんなに高い金額出す必要ないのでは、と。

確かに、エシェゾーとロマネ・コンティは違うでしょうし、歴史云々を含めてテーブルを賑わせられるかどうかは、より価格が反映されるポイントかも知れません。ただ、「それにどこまで支払うのか」という観点になると、我々庶民には、お財布を含めた諸々の現実的お話が首をもたげるわけで。特に、デイリーユースのものは。

 

そこから10年。個人的に行き着いた、低価格帯ワインに関する一つの結論が、

「テーブルワイン1ml 1円の法則」

つまり、ボトル1本750円が、当たり外れのバランスをギリギリ維持出来る基準線、言い換えれば、外れても「まあいいか」で済ませられる一方、当たれば当たったで、「ラッキー! また買おう!」と思える、損得勘定的心理境界線であるということ。

この金額を下回ると、かなり上手く狙わないと外れ率が上がり(特に白はしょーもないものが増える。モノによっては、微発泡だったりする。)、気落ちする確率が大きくなる。安い方が望ましいことは当然だが、対数関数の原点付近にある、奈落の底へ落ち込んでいくような急激な下げ幅は甘受し難い。そのギリギリのバランスが、「1ml 1円」

他にも、

「ノン・ヴィンテージよりは、ヴィンテージで。ただし若い年度に限る」

「極力ニューワールド系で。生産単価の高い旧世界は、一応疑う」

の条件が揃えば、味の方向性は単純になってしまいますが、しょっぱいワインを引く率は低くなるような気がします。

とは言っても、これは一杯100円のサイゼリヤのグラスワインに対し、

「価格を考慮に入れると、非常に良いバランス。企業努力の成果は、自分も見習うべし」

なんて判断するような私の好みですので、味覚に優れた当代随一の人達からしたら謎理論でしょうが、標準的な凡人のレベルからすると、案外間違ってもいないんじゃないかな?

 

以上のような論理により、私としては、「テーブルワイン1ml 1円の法則」を強く主張したいわけなのですが、ここで悩むのが国産ワインの存在。

CARPEは、東京都の千代田区が本拠ですが、都内だけだと飽きるので、活動拠点の一つとして山梨県にも比較的大きな合宿所を所有しており、その関係で、山梨県のワインには触れる機会も多く、卒業生が集まってはアレコレ論評することがあります。

ただ、地元民の一人として、コレについては一つ言いたいのでございます。

「地元産なのに、山梨県のワインは高い!」

確かに、時代の方向性として、高級化路線は必然だと思いますし、先進国で生産する以上、人件費の観点から値下げが難しいのは分かるのですが、品質に対する費用対効果が少々悪すぎやしませんかね? マスコミ発の評価を見ていると、品質的にはボトムアップの傾向にあるようで、世界的に評価されつつあるのも喜ばしいことではあるのですが、価格設定が少々微妙な気がします。平均的な売り場の様子を見る限り、中心価格帯は2,000~3,000円/本。1,000円/本のものもあるにはありますが、品種不明なものも多い上、どこか混ぜ物っぽい。5,000円/本以上も特に珍しくなく、フランスやイタリア産だとしても、かなり良いものが揃えられるゾーンです。

国産高級セダンと同じで、最初から輸出前提・海外消費前提なら、まあそれもありかと思うのですが、しかし地元民の口からは徐々に離れつつあるのではないのか? とまあ、こう思うわけです。県内周囲で意見を聞いても、日常的に飲むというよりは、基本はお祝い用や贈答品用で消費されている感じがしますし。

このような意見に対して、生産者側からの対案と言えるかどうかは微妙ですが、「百姓の葡萄酒」のような、一升瓶サイズのものも市場には出回っていて、大筋「テーブルワイン1ml 1円の法則」の基準を満たしています。味はバラツキますが、上手く選べば、まあまあ悪くない程のもの「も」あります。

ただ、原材料を見れば分かりますが、この種のワインで主に使われているのは山梨のブドウではなく、恐らくバルク輸入された濃縮ブドウジュースで、所謂「日本産(ブドウから全て日本で生産)」ではなく「国産(ブドウは海外産で、国内で醸造しましたという意味)」。比較的国産ブドウを使っていると思しき「百姓の葡萄酒」シリーズでも、部分的に入っています。

その結果か否かは不明ですが、時期によって味が全然違うこともあります。昨年度の「百姓の葡萄酒 赤」はそこそこ旨かったのですが、今年度は一段階落ちを感じます。(少し寝かせたら、多少改善しましたが。)逆に、白は結構美味しい部類にありました。

個人的には、山梨県がワイン大国(大県?)になるためには、高級化路線による国際戦略も行う一方で、日本酒と同様、地元でリーズナブルなテーブルワインを県産ブドウで生産出来るようにすることが大切だと思っています。何も、ものすごく高級なものを安くしろと言っているわけではなく、セカンドワイン、サードワインに落とすようなものを安価にまとめ、ライトでも新酒の旨味で勝負するようなものが、もっと表に出てくれると嬉しいな、と。

いくつかレストランを回り、オーナーさんの意見を聞いてみても、値段と品質のバランスで考えると、

「県内産は、白は上々。赤はまだまだ」

という意見が多く、海外と同質のものを求めるには、軽く倍以上の値段を払わないと釣り合いません。赤に至っては、三倍払ってもニューワールドに押し負けることが度々です。気候や人件費の点から難しいのは十分分かっているのですが、何か一捻り欲しい気もします。

勿論、文句ばかり言っているわけではなく、山梨の赤には赤で、別の楽しみ方があるとも思っています。

以前、弟夫婦が遊びに来て、市内を車で案内したときのこと。

「ちょっとストップ! あそこに小さな店がある!」

と、急遽車から飛び出し、ワイン専門店に入る弟。しばらく待っていると、

「見たまえ、悠輝君! 山梨のピノ・ノワールやで!」

と、意気揚々、生産量のほとんど無いらしい、貴重な1本を選んで来たことがありました。ブルゴーニュのピノ・ノワールは分かりますが、山梨のピノ・・・・・・だと?

早速、ドライトマトにオリーブ、生ハム並べて飲んでみましたが、

「・・・・・・醤油顔やな」

「うん。日本人形のようなピノやな。能面と言うか」

「・・・・・・土だべか?」

「土だべ」

「でも、悪くないよな?」

「Ja」

「・・・・・・領収書ある?」

「見るな!」

なんてやり取りがございました。良いワインではあるんだけどね・・・・・・。

品種が同じでも、植わる場所で表情が変わるのは私にも分かります。ただ、日本のそれは違いが大きい。何というか、まったりまったりなんですな、おじゃる丸みたいに。この辺の違いを味わう意味では、確かに結構面白い部分もあります。

他にも、べーリーAなんかは、山梨に来るまでは知りませんでしたが、やはり特徴の強い品種だと思います。イタリアのマイナー路線を探し求めて、「アリアニコは良かでっしゅ」なんて言ってる面々ですので、この辺は楽しみ所です。

問題はただ一つ。「価格」。コレ大切。

 

改めて読み直してみると、何が言いたいのかわけ分からない文章になりましたが、要は山梨のワイン生産者の方には、アクセスしやすい県産テーブルワインのバリエーションと品質を、もう少しご考慮頂いて・・・・・・と言うことです、ハイ。

とは言え、まずは山梨ブランドが世界に煌めいてこそ、我々下々の者へ施しをするだけの余力が出るものかと思われまする。気長に待ちますので、生産者の方々におきましては、

「急がず焦らず 参ろうか」

の心境で、まったりまったり、おじゃる丸式平安貴族のようなテンポで、評価向上に努めて頂きたく御座候ふ。

長期引きこもりが社会へ向ける暴力を回避するには

正直なところ、ここで時事ネタを書くのは控えているので、一応以下の話も少しずらして書いていたつもりなのですが、偶然にも色々と事件が重なってしまい、タイミング的に難しくなってきたため、ここら辺で諦めて書いておきます。要は、これから社会のアチコチで頻発するだろう問題が、また一つ・・・・・・と言ったところでしょうか。

 

【こども園襲撃】背景にあった“いじめ”“ひきこもり”“発達障害”

事件前にサポートはできなかったのか

https://news.yahoo.co.jp/byline/masakiikegami/20180602-00085743/

 

要点をかいつまんで行くと、

1:30代の長期引きこもりが、こども園の職員と子供達を襲った。

2:彼は発達障害持ちで、障害と過去のイジメが原因で犯行に及んだ可能性が高い。

3:罪は罪だが、同じ悲劇を繰り返さないために、丁寧な支援が求められる。

でしょうか。筆者の方の意見はもっともですし、反駁の余地はありません。「社会的監禁」というワードも分かりやすく、大筋バランスの取れた良質な記事だと思います。

ただ、個人的に思うのですが、今回の事件のような殺人や殺人未遂を含めた長期高齢引きこもりの問題は、どのみち今後も頻発します。「本人や家族のニーズに添った取り組みを」とか言っても、そんな予算も無いですし人員もありません。「世界人権宣言」みたいに、スローガン的な意味で言うのは構いませんが、現実的にはほとんど無意味でしょう。と言うか、ただでさえ人的資源が不足しているのに、本気で長期高齢引きこもりがサポート関係者に殺到したら、破綻するのは目に見えています。つまり、具体策は事実上存在しない。

となると、真面目に次善の策を考えるなら、ありがちなだけで、毒にも薬にもならない無意味なお題目を唱えることより、

「社会一般の人々を、いかに長期引きこもりの暴力から守るか」

という点に話を絞るのがスジでしょう。

 

話が複雑にならないように、先に現状の引きこもりの方向性を説明すると、現実には以下のようなルート設定となっています。

能力面で → 有能 → 「一般的社会人」※1

無能 → 修正可能 → 「少し出遅れただけの社会人」※2

修正不可能 → そのまま家にこもる → 「平和に孤独死」※3

家から出る → 「自分が悪かったんだ・・・・・・」 →「自殺」※4

「こうなったのは社会のせいだああぁぁぁ!!!」 → 「犯罪者」※5

私個人としては、周囲に迷惑をかけないという観点から、長期高齢引きこもりの終末は最善で※3、次善で※4を推奨していますが、今課題になっており、今後も確実に増え続けるのが、この※5でしょう。

で、現実的に※5に対する対策を考えるとするなら、非常に迷惑な話かも知れませんが、社会一般の人々が事前に犯罪に繋がりやすい引きこもりの性質を知り、自主的に危機感持つしかないと思っています。と言うのも、今回の事件のように、引きこもりと何も関係の無いにもかかわらず、自分の子供や家族が被害者になる可能性があるからで。「引きこもりの立場に立って」なんて悠長なことしてると、いつか殺人を含む、大きな事件が頻発することになります。「引きこもりは優しいから」なんて意見は何度も聞いてきましたが、そんなものは現実を見ていない人達の机上の空論か、或いはただの嘘で、特に優しいでもなく冷たいでもなく、元々は大体が普通の人達です。今回の事件も、端的にそれを物語っています。

 

包括的な具体策については、一部法改正が必要と思いますが、ある程度現実案がないでもないです。ポイントは「医療保険」です。

現行の医療保険制度は、「協会けんぽ」「組合管掌健康保険」「共済組合」「国民健康保険」の違いはありますが、基本的にどれも扶養制度があり、経済的に自立していない子供などは、基本的に親の保険料で自動的に病気や怪我をカバーして貰えます。この点を利用します。

通常、引きこもりは経済的に自立していないか、あるいはネット上での取引による、不安定かつ税務申告無しの非合法マネーで生活していることが多く、結果として医療保険は親の扶養になっています。となると、例えば、

「40歳以上 被扶養者 本人によるその他の医療保険加入歴無し」

「35歳以上 国民健康保険 長期間にわたり所得ほぼ0」

のような事例は、大多数が社会経験の無い長期引きこもりになるわけで、各健康組合と国が連携すれば、長期高齢引きこもりの住所や氏名等はすぐにスクリーニング可能です。場合によっては、フリーター等が混じってしまう可能性もありますので、源泉徴収票とリンクさせれば、よりその精度が上がります。

また、経験則上ですが、引きこもりの危険度は社会参画期間の長さに反比例します。分かりやすく言うと、「30歳まで仕事してて、それから5年間引きこもり」の場合よりも「12歳から35歳までずっと引きこもり」の方がより危険、ということです。実際、30歳以上で社会経験0の引きこもりは一部除いて大多数が「地雷人材」で、関わるとろくなことがありません。

この辺も、基本的には医療保険の加入履歴で大体のことが分かります。中小企業に勤めていれば「協会けんぽ」に、大企業に勤めていれば「組合管掌健康保険」に、公務員なら「共済組合」に、自営業者やフリーターなら「国民健康保険」になります。よって、大筋の経歴は、医療保険加入履歴で大体が分かってしまうわけです。

以上のように、医療保険と源泉データをまとめることで、各エリア毎に「長期引きこもり存在密度」と「各引きこもりの危険度」を大雑把に算出することが可能です。それに加えて、「締め切られたカーテン」「家から漏れる異音」「家族の憔悴感」といった、近所の人なら大体分かるミクロデータを加味すれば、更に危険性は見えやすくなります。後は、そのデータ結果から見て、周囲が対策を立てれば良い訳で。

具体的には、

1:言動が意味不明or声が小さ過ぎて聞き取れない。

2:服装が年齢相応でない。

3:目を見て話が出来ない。

4:表情の動きが悪く、作りがおかしい。

5:手が震えていたり、多汗だったりする。

6:態度のバランスが悪く、妙に高圧的である

の要件に複数当てはまる人物に遭遇した場合は要注意で、その場は問題なくとも、後になってから逆恨みされる可能性があります。

今回の事件のように、不審人物の側から何らかのアプローチがあり、それが「要求」や「批判」等の場合には、「何だコイツ?」とか思わずに、一度長期引きこもりの可能性を念頭に入れ、兎に角下手に出て丁寧な対応を心掛けて下さい。どんなにおかしな要望や様子でも、高圧的に出てはいけません。特に「昔の俺は優秀だった」系の引きこもりは、最も反社会行為を行いやすい傾向にあるようで、その片鱗が少しでも見えたら、取り分け丁重に丁重に扱うようにして下さい。「豚もおだてりゃ木に登る」は、決して嘘ではありません。言い方は悪いですが、真実です。

基本的に、引きこもりは自尊心が欠如しており、長期化するにつれてその傾向に拍車がかかります。結果、些細なことでも「侮辱された!」と勝手に判断し、包丁の一撃に繋げて来ます。本人の自尊心が欠損していることが最大の問題なのですが、彼等はそれを「お前らが悪い!」と勝手に解釈します。表面化しないだけで、引きこもりの子供からの暴力に怯える家庭は、常時このような緊張感を抱えているため「慣れ」があり、暴力を回避する方法を理解していますが、一度その暴力が「慣れ」の無い人々に放出されると、線引きが出来ないため大変なことになります。

引きこもりの凶行の怖いところは、こちら側で加害が全くなくとも、勝手に被害者意識を爆発させてくる点です。完全な被害妄想なのですが、それで殺されてはたまったものではありません。

 

社会経験の無い引きこもりは、今後どんどん追い詰められることになるでしょう。自暴自棄の行き先は、詰るところ「自殺」か「他害」の両者に振り切れる可能性が高いですが、それと比べれば、「自室でそのまま安楽死」がどれほど幸せなことか。このような話をすると極論に聞こえるかも知れませんが、現実はそんなものです。今回の事件にしろ、運が良かったから死者が出なかったものの、ナイフ振り回している時点で殺人の可能性は十分にあったわけです。それも、何の罪も無い子供をターゲットにした最悪の結果として。反社会的な危険人物の条件としては、十分過ぎる位でしょう。

これまでも、現実を無視して「引きこもり」という行為を都合良く解釈してきた無責任な人達は、良く分からない論理で延々と失敗を繰り返して来ましたが、もうその人々も高齢で、先は見えています。彼等の不始末を負うことになるのは、結局は引きこもりと何も関係のない普通の人々なのですが、せめて普通の人が被害を被ることのないように最善を尽くすべきでしょう。

「家から出すな 長期ヒキ」が、これからの現実的スローガンとなることを祈るのみです。

中学範囲英語速習の進行について

講座の紹介にも掲載しておりますが、CARPE・FIDEMの中学範囲速習は、基本的に上位進学校と同等か、それ以上のレベルと速度で進みます。従って、「中学範囲」と銘打ってはいますが、一般的な公立中学の学習とは難易度・速度の両面で一桁上です。

英語に関して言えば、中学一年~高校一年までの範囲を10ヶ月で学びますので、本来の学習進度が4年(48ヶ月)、長期休暇を除外した場合で約3年(36ヶ月)なのを加味しても、進行速度は大体3.5倍になります。

このような事情により、

「そんなに速くて大丈夫でしょうか?」

という声が毎年来るのですが、実際はほとんど問題になりません。(余程の勉強嫌いなら話は別ですが。)

確かに、13歳の平均的理解力の子にこれを要求するのは酷です。確認した限りですが、開成や麻布、学芸大附属等、最上位の有名中学所属の子達なら、13歳でも特に問題無いようで、既に塾等を利用し、同等の速度で学習している子も珍しくありません。不登校・引きこもりとは関係無しに、再上位層の学習速度はこれ位が普通ですので、特に前例の無い話ではないのでしょう。しかし、ワンランク・ツーランク下がると進行に支障が出て来る点を鑑みるに、13歳の段階での現実的対象は一部と言えます。

一方、CARPE・FIDEM在籍者は基本的に不登校や引きこもりを経由している関係上、高校生以上の年齢(16歳以上)の子が主流です。年齢が加算された分だけ論理的思考にも余裕があるため負担も少なく、寧ろ速度的には妥当で無理なく学習が出来ます。(楽勝というわけにはいきませんが。)仮に15歳以下でも、元々中学受験を経験している、或いは、高校受験で上位校に通る学力があるような場合には、上記同様問題になりません。終了後の目標到達点は、所謂「日東駒専」で、平均的学習をコンスタントに続けていれば、学習開始から10ヶ月程度で普通に同レベルは通ります。

勿論、最初はbe動詞から始まりますし、ほぼ全ての参加者がゼロベースからスタートするのですが、中学一年の範囲で中学二年の範囲を見据えた知識養成を行う上、中学二年の範囲でも高校一年の英語に繋がるような授業展開がメインです。つまり、全般的に先手先手を打って、その後もスムーズに繋がるようになっています。無論、所持している知識を基準に話を進めており、極端な跳躍はありません。

この辺の事情は特に特殊な話でも何でもなく、文科省の指定と無関係であることが幸いしてか、学校教育のベースから外れることが可能なため、様々なところで無理と無駄を省くことが出来、結果的に効率的な学習が可能となっただけの話です。しかし、学習の遅延した不登校・引きこもりの子、特に上位の大学を目指さないといけない子の場合には、これはこれで都合が良いのかも知れません。

で、この話をしたのには理由があります。

今年度は各クラスで参加者数が多く、締め切り近い講座も出ているのですが、中学範囲速習の英語クラスでは既に英語全般に関わる包括的な説明を終え、中学二年の範囲に入っています。このタイミングで途中参加する場合、今からでも間に合うには間に合うものの、授業に追いつかせるための補講が増えるケースが多く、それに比例して費用も増える傾向にあります。

以上のような事情により、現状で参加時期を調整中の方は、6月中旬、遅くとも6月中の参加に間に合うよう注意を喚起しています。7月以降は基礎学習を終えていて速度も加速するため、補講費用が倍近くなることも多く、費用的な無駄が増えます。費用削減のためにも、以上の点をご留意下さい。

翌年度以降の受験を見据え、今後は段階的に会話も取り入れなくてはならないため、学習のボリュームは増加しつつあります。無理の無い学習のためにも、参加希望の方は一歩早めの参加をお薦めします。

不登校から医学部へ進学した卒業生のアドバイス集を掲載します。

 名前はまだ決めていませんが、(「不登校医学部生〇〇の、医学部のココが知りたい!」みたいな感じ?)ある程度数がまとまった段階で、医学部進学した卒業生からの進学アドバイス集を掲載しようと思います。評判が良い場合には、薬学部や獣医学部他、その他の学部も段階的に作成する予定です。

 コンテンツの基本方針としては、「不登校・引きこもり」と「医学部」の二つをキーワードとし、不登校経験のある現役医学部生の本音コラムという形で進める予定です。具体的には、

1:不登校から医学部へ進学する際の注意点

2:進路先大学の選び方

3:大学に入った後の実情(勉強編)

4:大学に入った後の実情(友人編)

5:大学に入った後の実情(彼氏・彼女編)

6:大学に入った後の実情(部活・サークル編)

7CARPEFIDEM医学部卒業生座談会

等で、他にも、「再受験生あるあるトラブル」や、「留年対策」、「ぼっち対策」、「結婚の話題」等、社会に出る一段階前の医学部生が抱える話題に、「不登校」というスパイスをきかせた設定となります。

 具体的な企画が確定次第告知致しますので、医学部進学希望の方は参考になさって下さい。

国の豊かさとワイン考

今回は不登校や引きこもりは全く関係ありません。悪しからず。

この考えを視野が狭いと言うかどうかは定かではありませんが、私個人としては、今の日本は非常に豊かな環境下にあると考えています。無論、世界にはそれ以上の豊かさを享受している地域もあるでしょうし、とてつもない資産を持った人々もいますが、普通の人々が平均的に得られる豊かさを鑑みれば、日本のそれは大したものだと思います。

この話になったのが、馴染みの友人達と田舎の方でバーベキューをしていたときのことで、

「スーパーの安いワインで構わないか、沢山飲むし」

と、数百円程度のワインを皆で適当に見繕って飲んでみたところ、これがなかなかどうして美味しい。

安ワインなので、産地はチリやアルゼンチン、オーストラリアを中心としたニューワールド系が主で、他には、国が傾いたせいか為替負けしたせいか、はたまたその両方なのか、最近勃興してきたスペイン産なのですが、コスパの観点からすると大変結構な味でして。現地のバイヤーが変わった人なのかマニアなのか知りませんが、グルジア産やモルダヴィア産もあり、こちらもまた乙なものでした。

知人からも、

「東欧のワインには、たまに面白いものがある」

と聞いていましたが、なるほど確かに。資本主義の論理で売れ筋ばかりに力を注いだ結果、カベルネやメルロー、シャルドネ、せいぜいあってシラー位しか目に付かなくなってしまった旧世界の様子を横目に見ていると、更新の遅かった共産圏の経済政策も、今となっては案外悪くないものなのかと思えてきますなあ(笑)。

無論、低価格帯なので、どっしりとした強い赤ワインは期待出来ません。数年前から出てきた、イタリア産の低価格帯バローロとバルバレスコで何度か痛い目を見た私としては、ここで重い赤を期待するのはどうかとも考えており、無茶な要求をするつもりも更々ないのですが、低価格でも良い品質のものが流通するようになった点は、積極的に歓迎したいところです。ネッビオーロ種が低価格では、ロマンが無いという部分もありますし。

こと富の豊かさについては、無料、或いは低価格で高品質な製品にアクセス可能かどうかが焦点になると思いますが、その観点から言えば、デフレの影響もあってか、今の日本は驚くほど豊かです。

 

以前、弟妹二人に弟の奥さん、それに細君を加えて一緒に食事をしていたとき、

「特産品を高品質低価格で得たいなら、現地に行くのが良い。特産品以外になると、地方都市は専門店が少ないので基本的に弱い。大都市圏は、地方都市にも無い産品が世界中から集まるが、価格は高い」

という話題になり、大都市住まいの妹と、海外地方都市住まいの弟夫妻、大都市・地方都市両方見ている私達夫妻とで、食文化を題材に盛り上がったものですが、「品質」と「位置」と「価格」は、相互に関数関係にある好例だと思います。

そう考えると、「位置は遠く、品質は良く、しかし価格は安い」というこの度のワインは、上記一般法則を見事に破ってくれた素晴らしい反例と言え、他の産品にも同様の変化が出てくれることを期待せざる得ないわけです。

少し視点をずらして、大昔に私の両親が、高いだけで全く旨くないポルトガルの「マテウスロゼ」に辟易した際などは、恐らくリーファーコンテナの有無が原因だったのかも知れません。流通経路の未熟さが高価格劣化製品を生み出すケースは、ローマ時代から続く一つの商業的「お約束」で、「高い割にマズいな」という評価を受ける典型例でしょう。

しかし、高度に発展した海上流通網が、今のワインの品質を可能にしているとするなら、それを日々支え続けてくれている日本企業には、受益者の一人としてエールを送りたくなるわけで。物流は、ICタグを始めとして、まだこれから大きな変革があると言われていますが、機械化で向上する流通網の生産性には、今から注目せざる得ません。

リカードの比較生産比説が、現代でもどの程度通用するのか分かりませんし、貨幣システム自体が変わりつつある今となっては、これまでの経済ルールをそのまま踏襲するのもいかがなものかと思いますが、先進工業国と、発展途上国との「熱の差」が等しくなるそのときまで、低価格高品質な物品を楽しむことにしましょう。恐らく、それ位のことは黙って許されるはずです。

pagetop