不登校・引きこもりからの大学進学塾

引き出し屋を叩く支援者は本当に「正しい」のか?

 ニュース見てると、引きこもり引き出し屋が次々に摘発されてますな。訴訟にまで発展だとか。まあ、良い傾向だと思いますね。

 しかし、引きこもり当事者がさも被害者面しているのはちょっとねえ・・・・・・。引き出し屋が悪いのは当然として、そこは認めるけど、第一その原因作ってるのアンタやんって。仕事しないだの、親に当たるだの、しかも年齢が30超え40超えだの。普通の人が聞いたら、「いや、お前もおかしくね?」って思いますよ。

 まして、親が老後資金切り崩して500万だ1,000万だを出すだなんて、よっぽどですよ。それだけの資金投入してでも、あなたと別れたかったのでしょう? まずその意味を考えるとかしないのかな? 自分がおかしいのでしょうかね?

 引きこもり業界って、昔からどう見てもおかしな話が普通にまかり通ってて、今回の引き出し屋の件なんかも同じ。分かりやすく言うと「被害者最強! 被害者無双!」で、いかに自分を被害者の立場に置くかで物事考えてる。被害者になると、金も取れるし、同情票も得られるからね。まあ、最近の韓国みたいなものです。

 面白いのが、コレの支援者側も同じ系統の人達で、大体が旧社会党の左派系の人々に行き着く。確か、宇都宮弁護士とかも絡んでたけど、大体そんな感じ。別に、宇都宮弁護士が悪いわけではないけど。

 ここが全部タッグを組んで、仮に道理的におかしくても人権ネタで強行突破しようとしてる。「可哀想な引きこもり! 何もしてないのに、暴力的な引き出し屋に力でねじ伏せられた!」ってね。ちょっと調べれば実情はすぐに分かるけど、表面的には分からないから、それで押し通そうとしているんだろうなあ。

 訴訟本体は原告の勝訴になるんだろうけど、社会全体の反応がどうなるかは楽しみなところです。個人的には、この件を通して、引きこもり業界の実情が表面化し、謎左翼勢力が退潮することに期待しております。

 

不登校・引きこもり雑感2

 久しぶりにふと思った。
 引きこもりの居場所とかにいる、
「ピュアで可哀想な私。汚い社会では生きられない。汚い社会が嫌い」
みたいな女性。あれ、何故発生するのだろう?

 男性でもたまにいるけど、圧倒的に女性が多いイメージ。ボランティアスタッフも(少なくとも表面的には)優しい人達なので、ウンウンと話を合わせているけど、明らかに何か変。

 で、誰も間違いを指摘しない。多分、面倒だから。ココロの病系なら、まあプロ(精神科医・公認心理士)の仕事だろうし、トーシロは関わらないのが吉でしょうな。

 ただ、どうみても拗らせただけ、みたいな人もいる。何と言うか、イタいだけみたいな人。誰かが「お前、それ止めた方がいいよ」と強く言ってくれていれば、もしかすると変わったかも知れない人。結局、誰も何も言わなかったから、そのままオバサンになってしまった残念な人。或いは、言ったけど聞く耳持たなかった阿呆なだけの人。そんな人も結構見る。

 自分も、何度か絡まれたことある。反応は何故かテンプレ通り。引きこもり止めて社会人になった人達の話とかすると、良くて不愉快、悪いときは本気でキレる。しかも、彼等が結構な成功者になってたりすると、
「それは汚いことをしたからsghs気宇言うflkンgkんxkvl」
とか。まあ、ヤバい。

 若いうちは、それでもギャグで済んだんだよね、きっと。20代位までなら、引きこもりでも、女の子チヤホヤタイムがあるから、ちょっと変でも結構おかしくても許して貰える。

 でも、30過ぎて、40越えてとなったら・・・・・・。ただの不気味なオバサンやん。

 最近になって気付いたけど、この種の人達は、LGBTとかフェミニズムが大好き。以前、眠かったので「それ分かるわ~」とか適当に相槌打って話聞いてたら、めっちゃ早口で唾飛びまくり怒濤の1時間連続トークとか食らったんだけど、きっと何かあるんだろうね。もう、そこにすがらないと生きていけない位、人生「やっちまった」のかなあ・・・・・・。

 個人の生き方は自由だし、別に好きにすれば良いと思うけど、そんなキテレツな人達も、環境が環境なら、もっと誇れる生き方あったと思うんだよね。仕事もそれなりにしてきたけど、結婚して子供もいて、煩い子供達追いかけながら、でもちょっと幸せみたいなお母さんいるじゃない? 自宅の傍の家庭とか、まさにそんな感じ。いいよね。

 でも、今更そんなの無理。出来るわけない。周囲は絶対にそう思ってるし、本人も意識化しないだけで理解はしてる。失敗人生。でも、無駄に生命は輝いている、みたいな感じ。生き地獄ですよ。

 多分、どんどん先鋭化すると思いますよ、この種の人々は。後戻りなんて出来ないし、自分の間違いなんて認めるわけにいかない。認めた瞬間、嘘で固めた自我も綺麗に崩壊するから。認めないのが正しいのでしょう。

 ただ、それで迷惑を被るのは、普通の人達。だって、そんなキテレツさんに税金出さないといけないのだから。大体皆、最後は生活保護だし。意味あるのかな、これ。

 少なくとも、自分はそんな生き方おかしいと思うし、素直に惨めな人生だと思う、嘘偽らずに評価して。だから、まだ間に合う子達にはキテレツさん達の姿を真正面から見て欲しい。偉大な反面教師として。

 馬鹿にする必要はないから、じっくり見て観察する。答なんて分かってるけど、見るのと見ないのとでは全然別です。見て話聞いた瞬間、引きこもり止めた子がいるくらいだからね。ある意味すごい存在だと思うよ。

 自分は、社会はそもそも汚いものだと思うし、汚い中でもどう綺麗に出来るか工夫するのが所謂「仕事」だと思ってる。だから、現実を否定して「ピュアな自分♪」とか言ってるのは、ただ馬鹿なんだと思う。或いは無能か。

 汚泥に塗れる覚悟がないから、あんなキテレツさんになるのかな。要は、覚悟の問題か? でも「覚悟の問題」とか言うと、またヤンキー発想がどうとか言われるのかもねえ。正しいと思うんだけどねえ。


不登校・引きこもり雑感

 コロナの状況も分かり、その後の社会も安定的低空飛行となった今、改めて不登校・引きこもり業界の状況を見てみると、益々二極化が鮮明になった気がします。要は「自立群」と「依存群」の話です。

 自立群については、実際問題として自立が難しくなりました。CARPEに来るような一部高等教育層等の上位群は相変わらず別ですが、高等教育抜き(中・高卒)で就職を狙っている人々は、正直かなり厳しいと思います。アルバイトレベルの採用も激減していますし、秋口から増加する失業者の煽りも受けます。特に、対面式の比較的参入しやすい業種が軒並み全滅しているため、そもそも最初のステップが取りにくい。気持ちはあっても、それに社会が追いつかないのは、残念なことです。

 ただ、情報関連分野は、リモート化の影響を受けて比較的好調なようで、個人的な近接事例でも、多少なりとも経験のある人達に対する需要は多く、捌ききれない程度には仕事が増えています。無教育徒手空拳での就業は難しいですが、知識がある人には逆に良いタイミングかも知れません。

 また、就職が難しい場合には、教育こそが最良の選択。教育は金の掛からない娯楽で、時間が余っているときには非常にオイシイ。引きこもっていれば時間も豊富に取れますから、アフターコロナの状況に合わせた学習に向かうのは悪くないと思いますね。しばらくは我慢のときと思って、嵐が過ぎるのを待つことにしましょう。

 しかし、「依存群」はどうするのでしょうね? 親に無心し、親がダメになったら国に無心し、国がダメになったら・・・・・・? 世界全体で国が傾きつつあるこの状況で、まだ「国は金出せ」だの「自分達を助けろ」だの「社会が変われ」だの、依存依存でいるつもりなら、これは完全に社会の敵ではないでしょうか? しかも、それを助長してきた支援者はどうするつもりなのか?

 強者になろうとする弱者は応援しましょう。いつか皆の助けになりますから。一方、弱者のままでいようとする弱者は、絶対に許さないようにしましょう。これからも、皆の足を引っ張る邪魔者ですから。

 社会が傾くと、邪魔者への風当たりは厳しくなります。依存が割に合わない社会が、コロナで再構築されることに期待しましょうか。

遠隔授業の拡張について

 平素は格別のご高配を賜り、まことにありがとうございます。

 現在CARPE・FIDEM LLCでは、コロナウィルス感染拡大に伴い、2020年度開講講座より既存の遠隔授業を拡張して運用しております。ただ、これまでは在籍生中心の実施に限られており、より細かなご要望にお応え出来ない状況が続いておりました。

 そこで、この度運用機材の見直しを並行して行うことで、限定的ながら新規参加の方も対象とした遠隔授業が実施可能となりました。

 具体的な授業形式の概要については、以下をご確認下さい。

1:遠隔授業開講講座一覧

〇大学受験理系基礎(月・火・水・木・金)14時~17時
科目:数学・英語・物理・化学
〇大学受験理系応用(火・水・木・金)10時~13時
科目:数学・英語・物理・化学
〇共通テスト国語(土)14時~17時
科目:現代文・古文・漢文
〇少人数個別対応講座(任意設定)
科目:任意設定
※少人数個別対応講座の空き状況は、以下をご確認下さい。
〇:残席あり △:残席1 ×:残席無し

月曜火曜水曜木曜金曜土曜日曜
10:00~13:00××
14:00~17:00×××××××
17:30~20:00××
20:30~23:00××

2:授業料
通常対面授業と同額になります。
関連項目:「講座と費用

3:配信方式
〇Zoom
〇Skype
〇Discord
※PCやタブレット等の情報端末は各ご家庭でご用意下さい。適当な機材が無い場合には、レンタルも行っております。

4:参加申し込み
以下のリンクよりお申し込み下さい。
関連項目:「新規参加のお申込み

5:その他の注意点
 不登校・引きこもり当事者の方の場合、PCのモニターカメラ使用に対する否定的な声が多いため、CARPE・FIDEMの遠隔授業では、筆記情報のみを効率的に伝達出来るよう調整がなされております。所謂「顔出し」が苦手な方でも、安心してご利用下さい。

 以上、ご確認をお願い致します。

不登校と遠隔授業の弊害

 現在、コロナウィルスの流行をきっかけに、各教育機関は遠隔授業へと段階的に舵を切っています。

 元来、教育システムとは、机上の学問のみならず、人間性の涵養を目的とした集団活動を内包しているものであり、効率性も相まって密集形態はその必然です。しかし、こと感染症が課題となった現状では、密集形態そのものが忌むべき存在となっており、物理的距離の確保は最優先。涵養を放棄してでも、生命を優先しなくてはならない状況へと移行しつつあります。

 そしてこの傾向は、不登校業界でも何ら変わりありません。

 一般に、不登校経験者は人間関係が苦手です。視線が気になったり、集団の会話に入れなかったり、団体行動が嫌いだったり。理由は様々ですが、好んで人間関係を構築しようとするのは少数派です。

 そのため、不登校経験者への学習指導は、勢いマンツーマン形式か、少人数の個別対応形式が中心となります。人間関係が苦手なら、集団授業に適応しにくいのは自明のことですし、指導者側の目の届きやすいこの形式が、事情に即応した正しい判断とされるのも至って自然なことです。実際、CARPE・FIDEMも、発足時から継続的に個別対応指導を組み入れています。

 その一方で、少人数形式には、「衆人環境への適応能力」なる不登校経験者における最大の問題点を、未解決のまま素通りさせてしまう致命的な欠陥があります。学力的問題は解決したものの、人間関係の不自由が原因で、「不登校→個別指導→大学→中退」となる事例は毎年少なからず存在し、不登校教育の現場では常時課題となり続けています。

 恒常的に集団との接触を心掛けていれば、段階的に緩和されるこの種の問題でも、指導側による「手加減込み」の人間関係しか経験が無ければ、当事者は0成長のまま大学での環境に応じなくてはなりません。それに耐えられない者はひっそりと中退し、自己否定と後悔のみを抱えて振り出しに戻ります。無駄とは言いませんが、価値の乏しい行為とは言えるでしょう。

 遠隔授業というその人間相互の物理的関係を断ち切る環境は、少人数形式指導を更にもう一段階乗り越えたレベルで、対人関係能力の構築速度を低下させます。環境が不登校経験者にとって望ましくなればなるほど、彼等の人間性涵養の速度は反比例して衰えていきます。

 今や少人数形式を超え、モニター越しで物理的接触0の空間へと移行した遠隔での指導環境は、 緊密な関係への苦手意識があるが故に、今後より一層積極的に受入れられる可能性があります。誰しも、居心地の良い環境を望むものですから、不登校教育業界における遠隔授業の拡大も、何ら不可思議な話ではありません。

 無論、社会がこのまま永続的に物理的距離を最優先とするなら、それでも影響は軽微かも知れません。しかし、過去のいかなる感染症も人間の叡智により克服されている現実を見れば、帰納的に、この現状もいつかは元の状況に戻るものと推察されます。そのとき、取り過ぎた「距離」がどのように作用するかは、火を見るよりも明らかです。

 CARPE・FIDEMは、設立時より集団性授業をその中核とし、個別対応はサポート利用に制限してきました。学力の向上と同時に、不登校経験者には、別に学ばなくてはならない「他者を知る」という行為が求められています。それ故、 大学進学後や就職後の人生を考えれば、 雑多な人間の集まる衆人環境は、進学前に慣れておかなくてはならない必須項目だからです。

 学問自体、人間の認知を通して自然や社会を見つめるもの。人間を拒否して、学問のみを推進するなど、土台不可能な話です。学ぶことの前提には常時他者がおり、他者とは指導者のみならず、人生を併走する友人でもあります。他者の存在が希薄化し、情報移動のみが存在するなら、それは、教育における最も重要なテーマの「何か」が置き去りにされているのではないでしょうか?

 実験的指導である遠隔授業は、時間と空間の節約だけでなく、経済的負担も軽減させる素晴らしいシステムです。その一方、本来必要な学びの「何か」を失わせる恐ろしい側面も持っています。

 利便性にばかり目が向きがちですが、平行して喪失されるものこそ、不登校経験者にとっては最も大切な要素。安易な居心地の良さは、いつかどこかで自分を裏切るものと考え、私自身への戒めも含め、お互い十分な注意を心掛けましょう。同時に、「他者を知る」という行為における、現実に即した代替手段の構築を目指したいと思います。

 

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