引きこもりの長期化と無能力化への対処

「欠陥が私の出発の基礎だ。 無能が私の根源だ」
ポール・ヴァレリー フランスの詩人

 一つの言葉にどう反応するかで、その人の本性が垣間見えることがあります。

「無能力」という強い言葉の意味

 これは八起進学校の時から同じことなのですが、サイトの掲載情報には、人によっては極めて不愉快になったり、気分を害したりするものがここかしこにあります。


その気分を害する要因は色々あるかと思いますが、これまで見てきたところ、これは詰まる所「無能力」や「手遅れ」という言葉に集約されているかと思います。

 「無能力」とは、極めて強い言葉です。「お前は無能だ」と言われて、気分を害さない人がいるでしょうか? 「無能な人間に居場所はない」と言われて、不安にならない人がいるでしょうか? 気分を害さなかったり不安にならない方が、寧ろどうかしているのではないでしょうか?

 「手遅れ」も恐ろしい言葉です。それは、人によっては死刑宣告に近い程の意味を持つ可能性があります。

「あなたには、もうまともな手段は残されていません。希望も何もありません」

 こんな言い方をする人間は、どう見ても非情としか言いようがありません。まして、社会からの視線に日々圧殺されそうになっている引きこもり当事者からすれば、これ程までに恐怖を感じる言葉も無いでしょう。

 無論、このような言い回しを公開していれば、CARPE・FIDEMという組織運営自体に恨みを抱く人達も多々出て来ることでしょう。自分にとって何のサポートにもならない表現を好意的に受け入れられる人など、そうそういるものではありません。リスクばかりであり、何ら益の無いことです。

 しかし、


これ程のリスクがありながら、それでも言い回しを変えないのには、それなりの理由があります。

「無能力」から学ぶ人達

 一つ目は、この表現が実情に即しているからという点。つまり、


「何故引きこもりが長期化するのか?」という問に対して「無能力だから」と答えるのが、最も偽り無く簡潔、かつ現実に適合しているということです。

これは、短期で引きこもりを止めてしまう人達程有能な人物が多い一方で、最後まで引きこもりから抜けられない長期化事例の圧倒的多数が、アルバイト一つも満足に出来ない「無能力者」であることを見れば明らかです。

 どのように言い方を変えようと、この現実は変わりません。


現実の立ち位置を確保することから、全ては始まります。

 二つ目は、


この事実を伝えることで助かる人々がいるという点で、これは特に若い人に多い傾向にあります。

「引きこもりになったらどうしたら良いでしょう?」と問われて、「長期化事例はほとんどが無能力者だから、無能力者にはならないように」とアドバイスすれば、それなりの成果が出てきます。これは、引きこもり長期化を回避したい人にとって、「無能力」という言葉が、自分の今後を決めるための道標となっていることを示しています。言い換えれば、長期化した先人の失敗事例が「無能力」という一言に集約されているため、反面教師としての大きな存在意義がある、とも言えるでしょうか。「手遅れ」や「無能」という言葉に「ふざけんじゃねえ!」と反発をおぼえる人達がいる一方で、「なるほど、そういうことか!」と反応する人達もいるのです。

 三つ目は、


解決策がある程度具体化、単純化出来るという点です。

確かに「無能力」とは強い言葉ですが、

「『無』が悪いなら、その反対の『有』になればいいじゃない」

という発想が生まれます。そして、この無能力者から有能力者への転換こそ、改善の第一歩としては大変都合が良いのです。

 無論、中には感情的に「無能だなどと、人を馬鹿にするのも大概にしろ!」のように言う人々も大勢いましたが、現実がそうなっている以上、喚こうが叫ぼうがどうしようもないことです。寧ろ、

「私は今は無能ですが、社会のお荷物は嫌です。これからは有能になりたいし、社会の中で責任を持って活躍したいです。どうしたら良いでしょうか?」

のように、前を向いて行動出来る人達を見習う方が、人間として自然ではないでしょうか。



 「無能力」という言葉に対して感情的になる人々は、いつか自分が有能になるだろうことを想定していない。

つまり、いつまでも家族や社会のお荷物でい続けることを、思考の前提にしています。例えるなら、セーフティネットである生活保護をちょろまかし、我が物顔で不正受給しているのと全く同じことです。他人に依存することしか考えず、自分の足で立つことを考えない、卑しい人間の発想です。

 いつか有能な存在として社会で活躍するだろうことを知っていれば、今の無能力など些事に過ぎません。


未来の有能力者を自認する人達からすれば、現在の自己を定義する「無能力」という言葉は、寧ろ自らの原点たり得る盤石な岩盤であり、同時に誇るべき特性とも言えるのです。

 誇るべき特性であるはずの「無能力」という言葉を、個人に向けられた侮蔑であると認識し、感情に任せるままに批判する人と、自らの「無能力」を足掛かりとして前に向かって進もうとする人。これだけで、既に驚くほどの能力差があることが見て取れるのではないでしょうか。


「お前は無能力だ」と言われて「ふざけるな!」と激怒する人は、生涯通して無能力者のままでしょう。ちっぽけなプライドに執着して、「無能力」という名の足場を拒否しているからです。「お前は無能力だ」と言われて、「確かにそうかも」と認めて、これを足掛かりにする人は、未来の有能力者となるでしょう。客観的に自分を観察して、「無能力」という名の足場を持つ覚悟を決めたからです。

 以上のような事情により、「無能力」という言葉は、引きこもり当事者の事情や思惑も相まって、希望と絶望の両側面を持つ「諸刃の剣」となっています。しかも、


それが希望となるか絶望となるかは、外部の人間ではなく、当事者本人の自己判断によって確定するのですから、これ程まで引きこもり当事者の実情を端的に映す鏡も無いように思えます。

引きこもりと四つの無能力

 しかし、ここのコラムでも「無能力」という言葉が頻回に出て来ますが、まとまった定義付けをしたことが無かったので、話を分かりやすくするために、一度この「無能力」についてまとめておくことにしましょう。

 概観する限り、引きこもり当事者の無能力には、大きく分けて4つがあります。即ち、

1:社会的無能力

2:性格的無能力

3:基礎教養的無能力

4:年齢的無能力

です。

1:社会的無能力



 「社会的無能力」とは、人前で話が出来ないなどの「コミュニケーション能力の不備」や、長期の引きこもりにより、「体力が壊滅的に減少した状態」「致命的なまでの経験不足」などを指します。他にも、「瞬時の判断が人よりも極端に遅い」、「最低限の当意即妙を実行出来ない」などがあります。

 極端な事例は発達障害等の障害判定となり、手間と労力の問題から改善策が敬遠されて福祉支援の対象となる傾向にありますが、軽度の場合や単なる経験不足等の場合には、ある程度安定的な環境で訓練を重ねることで通常の社会復帰が可能になります。ただ、引きこもり放置期間が長いと、解決出来たはずの事例ですら解決不能に陥る傾向にあります。大雑把には、1年を超えると異常性が発生し始め、3年を超えると改善までにかなりの時間を有することが多くなります。基本的に、引きこもりは3年以内に抑えるようにしましょう。

 


以上のような事情から、対策の力点は、軽度の段階で行動を開始するだけの判断力があるか否かで決まると言えます。

放置すると状況が悪化するため、引きこもり期間を無駄に延ばさないことが、最良の解決策です。

2:性格的無能力

 


「性格的無能力」とは、「行き過ぎた完璧主義」や「極端な逃げ癖」、「他者への過剰な責任転嫁」「絶望的なまでの陰鬱志向」「病的なレベルでの自己ルール設定」など、社会生活を行う上で、およそ認められにくいような個人的性格を指します。

 こちらも、場合によっては発達障害などの判定にされることがあり、極端な場合には福祉支援の対象となることがあります。ただ、「劣等感が極度に強い」「異常なまでの攻撃性を示す」のようなものについては、引きこもることで発生する副次的性格であることも多く、ある程度社会参画がスムーズに進んでしまうと、何ら問題無く消滅してしまうものもあります。

 そのため、


「生来的に備わった性格」と「引きこもることによって付加された性格」を正確に見極めることが肝要です。経験則的には、引きこもり後に発生した性格の異常性については、将来の見通しが立ったり、経済的、教育的安定度が確保されることで、漸次緩和される傾向にあることが分かっています。

3:基礎教養的無能力



 「基礎教養的無能力」とは、一般教育現場において成される基本的な教育水準を保持していないことを表しています。

具体的には、幼少期から基礎教育訓練を行う環境下になかったため、高校以降の進学先が底辺校や底辺大学となっているケース等が挙げられます。教育水準の低さが原因で就業の可能性が大幅に低下したり、社会情勢の解析が出来ないため、活動の方向性が時代の要請と正反対になったりするなどの弊害があります。これには不登校等の事情が絡む場合もありますが、単に学業をサボった結果として、就業機会が消滅して引きこもりになった場合にも同じことが言えます。不登校関連の文脈では、定時制高校や通信制高校編入後に、学力不足が原因で、再度引きこもりやNEET化する場合等が一般的です。

 「基礎教養的無能力」は、改善が最も容易であるのが特徴です。経験則上、特殊学級に在籍していたなどの事情が無い限り、普通の学習意欲があれば大体は何とかなります。また、


一定以上の教育水準は、将来的な経済水準の上昇と生活の安定をある程度保証するため、教育時間と費用の点を除けば、総合的に見てローリスク・ハイリターンである傾向にあります。

10代から学び始めるなどのように対応策が早ければ、何らの遅延も無しに通常の社会人となってしまうケースも多々あります。

 一方で、


ある程度の年齢制限があることから、対処可能な年齢域が20代までに限られることが難点です。

無論、30代でも成功事例はありますし、選択肢としても決して悪くないのですが、親の加齢と共に発生する資金不足により、実際に実現化出来るのはレアケースです。また、社会的無能力や性格的無能力が過度である場合には、カバー出来る範囲も限定的になりがちです。

4:年齢的無能力



 「年齢的無能力」とは、就職上の年齢制限に抵触することや、加齢に伴う学習能力や体力の他、総合的能力全般の低下を指します。

無論、高齢になればなる程、無能力の程度は上昇します。

 


この「無能力」の特徴は、回避手段が皆無であるという絶対的要素にあります。

確かに、努力すれば体力の減少などはある程度抑制出来ますが、一方的に進行する加齢を止める手立てはありません。


4つの無能力の中で見る限り、この「年齢的無能力」は回避手段が全く無い上、一定以上になると他でどれほど頑張っても解決策が消滅してしまうのが難点です。

「時は金なり」という諺が、この現実を端的に言い表しています。

 大雑把な実情としては、10代の頃から何もしないまま30代を越えると、根本的解決策はほぼ無くなり、40代を過ぎると、そもそも生存自体が危うくなることがあります。場合によっては、生活保護等の回避策があるかも知れませんが、通常の引きこもりの事情では「ただの怠け者」としか判定されないでしょう。

 以上のように、無能力については大筋四つに分類されます。どの部分が最も問題となっているのかを検討し、最初の第一歩の足掛かりとしてみると、何らかの発見があるかも知れません。但し、


「年齢的無能力」で述べたように、歳を取り過ぎると、何をどう頑張ろうとも有効な具体策が消滅する点については変わりありません。

自分の年齢とにらめっこすることだけは、くれぐれも忘れないようにしましょう。

 次回は、今回の4つの無能力を基準に、具体的事例について検証してみることにしましょう。