引きこもりと年齢感覚について

「過去にしがみついて前進するのは、鉄球のついた鎖を引きずって歩くようなものだ。
囚人とは罪を犯したものではなくて、自分の罪にこだわり、
それを何度も繰り返し生きている人間のことだ」
Henry Valentine Miller 米国の小説家


現実無視の華麗な修辞学

 引きこもり当事者10名と話すと、誰かしら必ず1人は主張する意見というものがあって、そのうちの1つに「意味の『ある』『ない』論争」というものがあります。大雑把に言えば、これは以下のような主張で、

「存在することを証明するのは容易い。しかし、存在しないことを証明することは困難である。従って、あらゆる行いには『意味が存在する』のであるから、自分の思うことをしてみるのが良い。そこには必ず『意味がある』のだ」

というものです。比較的よく使われるのは、引きこもり当事者が自分のしたいことを自由に行うためのレトリックとして、でしょうか。

 この主張は決して間違っていなくて、基本的に「行動すること」そのものに重要性があることに偽りはありませんから、言い分そのものが間違っているわけではないでしょう。

しかし、それはあくまで「資金と時間が十分にあるときだけ」の話です。

 この種の主張はしばしば家庭内でも行われているようで、親御さんからの話では、「何か自分のしたいことがあるが、一定の資金が必要だったりする場合」にしばしば使われるようです。具体的には、以前のコラムで書いたような株式の売買や、ネット上での商取引が比較的メジャーな方でしょうか。他にも、過激な社会批判や無駄に旺盛な攻撃姿勢にも、この種の主張は利用される傾向にあります。

「株は社会を知るきっかけになるから『意味がある』だろ!」

「これからはネット上での取引が増加するんだから、引きこもっていても大丈夫!」

「俺は社会を正そうとして、悪い連中を叩いているんだ! 何が悪い!」

「意味がないことなんてない! 全てのことに意味があるんだ!」

 大概の意見は、このような方向性に集約されています。この波に呑まれた一部の親達は、彼らの意見に賛同して資金を提供したり、発想を受け入れたりします。

 しかし、何度も言うように、現実はそんなに容易いものではなく、どこか本道から外れたような生き方には限界があるものです。

事実、ほとんどの当事者が、自分の思いついた「意味のあること」に邁進して、なすすべなく失敗しています。
やたらと短期間で売ったり買ったりを繰り返す「社会を知るきっかけ」、実家の家財道具以外に売るものの無い「ネット上での取引」、結局は自分の不甲斐なさを転嫁するだけの「社会批評」。どんなに巧みに言い訳をしようとも、彼らの「意味のある行動」の最後は惨めなものです。

 無論、失敗は尊いものですから、多少はそのような経験があっても良いでしょう。「取りあえず、自分の思うようにやってみる」という姿勢は、別段間違ったものでもありません。しかし、それはあくまで現実的視点に立脚しているときの話です。親の所得に依存し、自立がままならない状況では、「取りあえず、自分の思うようにやってみる」のにも限度があります。

「親にぶら下がりながら、意味を自分で見出して、自分の思うようにやって良い」のは、せいぜい10代、どんなに無理言っても20代まででしょう。
30代にもなって同じようなことを言っているのは、流石にどうかしているというものです。自分の自由に出来るのは、自分で活動資金を調達してからなのであって、親に依存してするべきことではありません。これは厳しい意見でも何でもなく、脚色も何もない、普通の社会通念というものではないでしょうか。

 にもかかわらず、先のレトリックを繰り返しながら、何度も何度も同じミステイクを繰り返し続ける人々は案外多く、最終的には「引きこもり失敗例」として、長期化の果てに勢い良く表面化します。

この主張の困った点は、「現実的視点」と「親に依存している点」を黙殺すれば一応は正しいため、当事者が失敗を繰り返しても、主張を盾に方針転換をしたがらず、それが原因となって無駄に長期化が進行するところにあります。
一見すると正しそうな、それでいて自分にとって都合の良い論理に依存し続けた、愚かな人間の「なれの果て」と言えるでしょう。

原点回帰の重要性

 一方で、そこそこに引きこもりをやめ、社会へと向かったある青年の話にはこんなものがありました。

「散々色々やりましたけど、全て失敗しました。勿論、『親の金で』です。ええ、全て『浪費』です。父親が一生懸命に嫌な取引相手に頭下げて、母親が毎日毎日汗水垂らしてパートに行って貰ってきた金全てを、自分が隣でボンボン燃やしていただけです。その結論が、『俺のしてきたことに意味は無かった』です。すっかり爽快に『意味が無かった』。それだけです。

ただ、もしかすると意味はあったかも知れない。しかし、その『意味』ってのは『自分のしてきたことに意味は無かった』ということに尽きる気がします。『意味が無い』ということを知ったことに『意味があった』。それは事実なのかも知れません。

でも、こんなことはもう止めにします。自分は引きこもっていたけど、それでもプライドってものがあります。これ以上、無駄なことはしたくないし、親に迷惑をかけたくない。これからどうするかはまだ決めていませんが、今は取りあえず、自分の思う『意味があること』は止めにします」

 

この青年の優れたところは、「『意味が無い!』と叫ぶことに意味を見出し、そしてこれまでの姿勢を改めた点」にあります。
確かに資金の浪費は大きかったでしょうが、その対価として、彼はある種の「生きる上での原点」を手に入れたとも言えるでしょう。そういう意味で考えれば、彼のこれまでの行動は決して無意味ではなかったはずです。 

 しかし、物事には常時「現実」が付き纏うもので、彼のように途中で自分の思う「意味のあるもの」を放棄する人もいれば、いつまでたってもすがり続ける人もいます。周囲にとって厄介なのは、「学ぶ」ということを知らない、同時に、安寧な方向にいつまでも逃げ続ける後者のような存在です。

「俺のやっていることには意味があるんだ! だから金を出せよ! 文句を言うんじゃねえよ!」

 現実逃避を繰り返す者の愚かしさが、そこには確かに存在します。

分相応と年相応

 当然と言えば当然ですが、何事にも「相応」というものがあります。確かに、自分の考えに従って行動することは大切ですが、それが実を結ばないのならば、漸次軌道修正をかけ、方向転換するのがある種の義務です。まして、その行動の基盤が親の労力によって賄われているのなら、尚更のことです。

その「相応」を無視したところに、彼ら「意味持ちたがり屋」の悲哀が存在するのではないでしょうか。

 己が過去に囚われ、他人の資産を食い潰し、それでもなお、自らの行いに「意味」を求め続ける者。一方で、「意味が無い」ことの重要性を認識し、そこを座標軸の原点にして、新たな生き方を模索する者。社会に生きる人々がどちらに微笑むのかは、既に言うまでもないことです。