不登校・引きこもりと親の「信頼」

「親や教師の言う『信じてるからね!』は、『お前は信用出来ない』という意味にしか聞こえない」
中学生時代の友人の話

「信用」という言葉が、昨今は随分と安っぽくなったような気がします。

「子供を信じている」と主張する親のミステイク

 10家庭あると、父親母親問わず、必ず2~3家庭のどこかしらで聞こえてくる話が、「私は子供を信じていますから、子供の好きなようにさせたいと思います」というものです。

 一見すると、親子の盤石な信頼関係を表しているかのように見える、このセリフ。上手く回転している家庭ならば何も問題は無いのですが、しかしそれはほんの一握りで、実態は矛盾の宝庫です。毎年似たようなミスが目立つので、自戒を促す意味でも、ここでは少し厳しめの現実をお話ししておこうと思います。

■現実■

 不登校・引きこもり関連で、好きなようにさせても大きく成長するのは、現実感覚に優れ危機感のある、能力的に頭一個抜けている優秀な子のみの話で、他はただ自堕落な生活に堕するだけ。

 30過ぎの高齢引きこもりを抱える家庭を調べてみれば誰にでも分かることですが、


そこには、子供のことを信じ続けた、「自称理解のある親達」の、年老いて途方に暮れた姿があります。

 彼らの信じた子供達は、家でネットに張り付き、現実逃避一直線で暴力沙汰も日常茶飯事。それでも、彼らは子供を「信頼している」と言いますが、親の「信頼」がもたらした結果の大半は、せいぜいこの程度のものです。

 しかし、これは何も信頼が悪いと言っているのではありません。それどころか、家族間の信頼は無くてはならないものであり、信頼関係ゼロの状態で事を先に進めるのは困難でしょう。何事も、最低限の信頼関係が前提であり、これはどの社会活動でも同じことです。

 ただ、


ここでの悲劇は、親が「現実逃避」を「信頼」と言い換え、子供の「好き勝手」を安易に許容しただけでなく、「親の信頼に応えるだけの能力を子が持っているもの」と勘違いしたことから来ています。

言い換えれば、表面的に「信頼信頼」と言っているだけで、実情は親の現実逃避が悲劇を呼び込んでいる、と言えるでしょうか。

「信頼」という言葉が大好きな親達

 こんなことを言えば反発をくらうことを承知で言いますが、


「子供を信じている」と主張する家庭は、問題解決能力に乏しかったり、問題を先延ばしするための方便として「信頼」というワードを悪用しているだけにしか見えないことがあります。

 「子供を信頼している」という言葉を金科玉条のように振りかざす一方で、子供の状況が悪化していても見て見ぬふりをし、けじめをつけようとしないなど、発言と行動とが全く正反対であることも目立ち、しかもこういった家庭の奇怪さは10年近く前から少しも変わっていません。

 子供を「信頼」したがる方のために参考までに言っておくと、優れている子とは、不登校や引きこもりになった後、大体以下のような行動を取っているものです。

■親の信頼に値するだけの子供の行動■

 
不登校になった後、しばらくの休養を経て、アルバイト等の活動を開始。ネットや書物等で情報を仕入れ、これからのライフプランを検討しながら現実的に実行可能な策(進学・就職)を列挙。タイムリミットと親から提供可能な教育費等の限界費用を確認し、その範囲内で出来ることを3年以内には実行して社会へ出る。

 因みに、これは高々10代の子達の話です。


上記のような行動を3年以内に実行出来る子、或いは成人前に実行出来る子なら、確かに信頼しても良いかと思います。

十分に優秀ですし、際立った将来性さえ感じられます。

 


しかし、それ以外の「信頼」は、実にあっさりと裏切られる可能性が高いと見た方が良いでしょう。

少なくとも、現実はそうなっています。

 同時に、「上記のようなことが出来るのは、ほんの一握りの子だけである」という現実を知っておくべきでしょう。これが出来ていないからと言って怒り出すのはおかしな話ですし、出来ないと分かっていながら子供のなすがままにさせておくのは、責任放棄というものです。

 


全面的に子供を信頼して任せておくという選択は、ほんの一部の高レベル層にだけ効果があるもので、それ以外には寧ろ害でしかありません。

無論、ここには親バカも通用しません。最後には、親が本当にバカを見るだけです。

建前ではなく、本音を

 親ならば誰しも、子供のことを信じたいと思うのが普通のことだと思います。しかし、そこにある信頼とは、本当に信頼なのでしょうか? 


単に、現実にある問題から目を逸らしたいだけ、問題を先延ばししたいだけ、子供と正面から向かい合いたくないだけ。そんな感情がないまぜになり、「信頼」という名の幻想に逃避しているだけなのではないでしょうか?

 だから、子供の状況はいつまでも改善せず、親だけが「信頼信頼信頼……」と、お題目のように唱える、惨めな現実が発生しているのではないでしょうか?

 今もあまり変わりませんが、問題解決能力の乏しい引きこもり当事者や、手遅れとなった当事者程、「心理」や「メンタル」という言葉、「社会批判」といった方向性に逃避したがる傾向があります。


これは、「心理」や「社会批判」というフレーズが、現実を見たくない彼らにとって大変都合の良い、居心地の良い環境を創り出してくれるからであり、同時に絶好の現実逃避先となっているためです。

参照:
本当に 「心」の問題 なのですか? ~心理という抽象論への逃避~

参照:
社会批判 過激になったら 赤信号 ~社会を知らない社会評論家~

 


これと全く同じ現実逃避が親の側にもあるとするなら、それは「信頼」という言葉が最も近いでしょう。

即ち、どんなに子の将来が危ういと分かっていても、全てを「信頼」でカバー出来るものと妄想し、具体的行動を起こそうとしない。厄介事を起こす位なら、適当に引きこもらせておいて、何もしない方がマシ。「信頼」を語る親の背後には、どこかそのような先送り判断が見え隠れしています。

「私は子供を信頼しています。(だから、子供がどのような状態でも、何も言わない)」

「家族なのですから、信頼することが大切なのだと思います。(だから、子供には関与しない)」

「親が信頼してやらないでどうするんです? (信頼してるんだから、余計なことを考える必要はない)」

 一見すると正しそうに見える言葉の陰に、どこか現実を隠蔽したような、奇妙な響きが存在してはいないでしょうか? この奇妙さこそ、本当の意味での信頼と、現実逃避の言い換えである「信頼」とのギャップなのではないでしょうか?

有限信頼の親達

「俺はお前の親で、お前のことを信頼したいが、無条件で信頼することは絶対にしない。同時に、お前がそこまで優秀とも思ってない。優秀でないからこそ、さっさと動け」

 このように言える現実的視点のある家庭が、最終的に笑顔で終わっているのは気のせいなのでしょうか? 「信頼信頼」と言いながら、幻想的視点から脱却できない家庭が長期化事例に多いのは、何かの勘違いなのでしょうか?

 表層をどんなに誤魔化し、臭いものにフタをしてみたところで、じわりじわりと滲み出て来る現実。


現実に挑む親と幻想に逃げる親との格差が、そこにはドンと根を張っているような気がします。

 


一見すると理解力があるようで、子供のことを考えているように見えながら、その実、幻想しか見られない親の口からほとばしり出る「信頼」という言葉。

これほどまで家庭をどん底に叩き落す欺瞞も、そうそう無いかと思います。結局、現実に挑む他に手がないのは子供も親も同じことなのですから、いつまでも欺瞞を繰り返すのではなく、今は苦しくとも、将来を見据えて行動した方が結局は楽になるでしょう。

 私は、本当の意味で子供を信頼出来る、優れた親御さんが増えて欲しいと思っています。