不登校・引きこもりからの大学進学塾

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前向きな積極的不登校の長所と短所 ~ホーム・スクール・ムーブメントの光と闇~

不登校対策としてのオルタナティブ教育は、必ず一度疑って下さい。

「追い詰められたとき程、ホームポジションに戻ることを忘れるな。
復帰力の強さは、そのまま試合での強さになる」

バドミントンの個人コーチ

 変なことをするのは個人の好みですが、変なことには変なことなりのリスクがあります。

不登校版「老人力」

 一言コメントしないと、「仕事してない」扱い確定な話題がありましたので、仕事します。

参照:「学校に行くのは週1 前向きな不登校を選択したある親子の挑戦」

要約すると、

1:公教育に疑問を持った親御さんが、
2:学校と学校外の活動を併存させた独自の教育を実施している。
3:しかし、既存の公教育とのすり合わせは依然として難しく、
4:積極的選択肢として成立するには至っていない。

ということでしょうか。

 個人的には、この種の発想は良いことだと思っています。多様性自体は時代の潮流ですし、しばしば発生する公教育上のトラブルを鑑みれば、ある程度同様の考えが出てくるのは自然なことでしょう。

 ただ、私個人に子供がいたとして、実際にこちらの親御さん(佐別当さん夫妻)と同じ事をするか、と問われれば、答えは「100%NO」です。

 こう書くと、「君は 不登校 の子達の支援をしているんじゃないの? 何故に反対?」と言われそうですが、積極的不登校にも、それなりの「不都合な真実」があるのです。

 と言うわけで、今回はちょっとセンセーショナルな欧米風記事に合わせて、

「不登校支援事業者の私が、積極的不登校を我が子に薦めない5つの理由」

という形でコメントしたいと思います。因みに、内容は比較的マイルドです。

1:積極的不登校最大の敵は、「大人」である

「何言ってんだ?」と思われるかも知れませんが、積極的不登校の最大の欠点を述べるとするなら、まず第一がコレ、「大人」の存在でしょう。一見すると、大人は子供の良き指導者となりそうですが、ある部分では、子供にとっての適切な成長の「敵」となります。

 ただ、これは所謂公教育で発生している問題点、即ち、「校内暴力」「性犯罪」「教師の指導力不足」等といった話題ではありません。積極的不登校は、複数人数からの視線があるため、この手の問題は寧ろ発生しにくいと推察しています。

 では、ここでの問題は一体何か? 簡潔に言えば、「大人は、どうしても甘く接してしまうため、必然的に子供の成長を阻害しやすい」ということです。

 学校環境において、大人は少数派であり、子供が多数派です。しかし、特殊な事情が無い限り、積極的不登校では、大人が多数派、子供が少数派です。よって、その子が相対する人間は「大人」の方が多くなりますが、このような「大人多数」の環境要因が、実は一番面倒なのです。

 以前、

参照:不登校からの塾選び

の記事でも解説しました通り、不登校の子には、「大人や年下とは話せるけど、同世代になると話せない」という事例が比較的多いのですが、これは、彼等には「同級生同士の、手加減抜きの環境に耐えられない」という事情があるためです。

 当然のことですが、自分より年上の存在は、自分に対して甘めに接してくれるため、多少のミスがあっても、「まあ、年下だしな」で許してくれます。つまり、自分の精神的バランスにとって、大体の場合で年上は都合が良い。

 逆に、自分より年下の存在は、自分よりも幼稚なことしか言わない可能性が高いため、何があっても、「まあ、年下だしな」で許すことが出来ます。つまり、自分の精神的バランスにとって、大体の場合で年下も都合が良い。

 しかし、同世代はどうでしょうか? お互いが同じ立ち位置ですから、許す許さないの基準も厳しく、何かしらのトラブルがあれば、収拾は困難になりがちです。結果、「ふざけんじゃねえゴルああああ!」、そこまで悪くなくとも「あいつウザいよなヒソヒソ」と、関係が険悪になったりします。

 まして、思春期特有の「青年期の課題」が山積した十代であれば、この程度も極端になります。つまり、年上年下との関係と比較して、同世代の付き合いは、難易度が圧倒的に高いのです。

 以上のような事情により、周辺環境が大人のみになると、人付き合いの本当に難しい部分を学ぶことの無いまま年齢を重ねるため、難易度の低い人間関係は形成出来るものの、人付き合いの難しい局面になると、致命的に弱くなるという欠点があります。要は、打たれ弱くなるのです。一人っ子や、おじいちゃん子おばあちゃん子が、ある種特有の弱さを持っているのと同じことです。

 これを回避するには、同年代の子達の集まりにドンドン関わっていくしかありません。学校環境に負けない位の、同世代の子供達だけの空間へ。しかし、比較的容易にそれが出来るのは、一般的には塾や民間のスポーツクラブ等に偏りがちで、それなら結局は学校と大して変わらないことになってしまいます。

 以上のような事情により、良かれと思ってやったことが、環境次第では、ただ甘やかされただけの弱いだけの子を生み出してしまう可能性がある。これは、まず最初に認識しておくべきでしょう。

2:積極的不登校は、「金」がかかる

 東京都生活文化局の資料によると、一般的な学校運営(高校)にかかる費用は、概算で100万円前後だそうです。因みに、私立は公費が40万円、入学金を三年間で平均すると、私費で75万円で、合計115万円前後。ざっと計算しても、一般的な高等教育には、最低でも年100万円前後はかかると見て良いでしょう。

 ただ、これは学校教育のように、規模のメリットが効果的に効いていての話です。実際にやってみると分かりますが、飲食店ほどではないにせよ、教育関連事業で高収益を上げるのはかなり難しいです。一人で教えることが出来る数には限りがありますので、生徒が増えれば、一定数の人件費がどうしても必要になりますし、教師や生徒が一カ所に集まるため、不動産の賃料も高くなりがちです。つまり、固定費の増加は、回避しにくい大きな課題と言えます。

 どうしても収益を上げるなら、1(教師一人)×1(生徒一人~数名)のモデルから、1(教師一人)×n(生徒多数)のモデルに切り替えるしかありませんが、それでは学校とあまり変わりません。衛星通信授業のような形式ならそれも可能ですが、何のための積極的不登校なのか、元も子もありません。

 そのため、ピンポイントの個人に対し、ある水準以上の教育を行おうとすると、どうしてもコストがかかります。自宅で学習すれば不動産の費用はかかりませんが、家庭内だけで全て済ますのも難しい話で、家庭教師を頼むにしても、低レベルな教育なら安くて済みますが、そこそこのレベルを要求するとなると、5,000円/時でも寧ろ安い位でしょう。

 結果、学校と同程度レベルの教育を家庭で維持しようとするなら、親が先生役をしない限り、投入金額は軽く倍になります。これに、課外活動や体育、文化芸術的要素を追加すると、三倍程度になっても文句は言えません。と、言うわけで、お金持ちなら何をするにも自由だと思いますが、一般家庭では事実上不可能となります。

 そもそも論として、公教育が全ての先進工業国で遍く普及しているのは、産業革命以降の社会では、口伝による家庭教育に限界が発生したのと同時に、生産活動が農林水産業を基盤とした第一次産業から、製造業等の第二次産業、サービス業等の第三次産業へとスライドしたことから、一定以上の識字率や定量的思考が必須となったためです。折しも植民地獲得の帝国主義が始まったあたりですから、国民そのものが無学無能では国が滅びます。そのため、国側から大なり小なり教育に投資をするのは、国家運営の観点から見ても、十分理にかなっていたわけです。

 因みに、それ以前の段階では、一部例外を除き、下層階級民に教育なんてものは無縁で、中流階級以上、主に有力商人や貴族階級でも、家庭教師を雇って師弟の教育を行うのが普通。公教育自体が、ほとんど存在しませんでした。

 となると、現在提案されているHomeschool movement「家庭内学習推進運動」は、ある種の「貴族発想」となるわけで、お金がかかるのも当然と言えます。(参考までに、wikipediaですが、英語読める人は、以下のリンクが参考になるかも知れません。)

「Homeschooling」

3:積極的不登校での「マイペース」は、視野狭窄に陥る可能性がある

 積極的不登校の良さとは、その子の良い部分を効果的に伸したり、苦手部分をその子の速度に合わせて補強したりすることが出来る点にあります。或いは、学校で扱っていない方面の教育に手を広げることが出来る点にあります。変わった事例ですが、私の知る中では、F1レースの方向に進んだ人がいましたね。確かに、これは学校では難しい。

 ただ、経験則ですが、主に学習面で「マイペース」を好む子は、周囲の子達の進捗を気にしない傾向にあるため、気がついたらとんでもない位学習が遅れてしまうことがあります。「マイペース」には、良い面も悪い面もあります。良い面は「手堅い学習」ですが、悪い面は「学習の遅延」です。よって、この点は、親が主体的に学習速度を配分しなくてはなりませんが、その際には、親自身がそれなりの高等教育を受けており、学習内容の全容を把握している必要があります。無論、これは学習以外の全ての面でも言えることです。学校と違い比較対象が少ないため、「変なマイペース」が普通になってしまうのです。

 実のところ、積極的不登校に近い形の教育を行っている家庭を、私もいくつか知っています。ただ、上手く機能している家庭もありますが、それは、経済的基盤が強く、親側で教育の全体像が見えている場合のみで、他は、既存の学校教育の負の面だけを強調し、逃げるようにして家庭内での教育を推進しているケース、言うなれば「ルサンチマン的不登校教育」です。

 積極的不登校を選ぶ場合、大切なのは「周囲を常時確認し、極端な遅延や偏りが発生していなか確認すること」です。無論、吹っ飛んだ天才にはその必要もありませんが、大多数のお子様は普通かチョイ上位の能力値しかありません。標準ライン確保は、特に気をつけましょう。

4:積極的不登校の水準は、結局親の包括的能力に依存する

 子供がある程度(最低でも12歳以上、理想的には15歳以上に)成長してから、自身の手で積極的不登校を選ぶのは、アリです。未熟とは言え、自己判断と結果の吟味が出来ますし、それを引き受ける覚悟も養われるでしょう。デメリットもありますが、メリットも同じように大きい

 一方、子供が小学生以下の年齢で積極的不登校を選ぶ場合は、成否は全て「親」にかかってきます。反抗期を迎える前の幼少期の判断は、基本的に親の側の意向に沿った形になりやすいためです。

親「(子供の将来を思って)ピアノやりたい?」
子「(やりたくないけど、やらないと怒られそうだから、仕方なく)やりたい」

しばらくして、子供がサボり始める。

子「ピアノ行きたくない。つまらない」
親「自分でやりたいって行ってたじゃない!」
子「そんなこと言ってない!」
親「???」

なんて状況はよくある話ですが、ここでも話は同じことです。

 親の側で子供の性格を的確に見抜き、それに適した教育をカスタマイズ出来るなら、積極的不登校も十分にアリだと私は思います。が、それが出来る親御さんは、実質的には少数派です。条件的には、

A:所得水準が十分に高い。(子供の教育に、最低でも年間200万円程度かけられる。)
B:親のどちらかが家にいる時間が十分に長い。(専業主婦・主夫など。)
C:子供の癖や性格を的確に見抜き、方向性を定めるのが巧みである。
D:親の教育水準が十分に高い。(高校程度までの指導は無理なく出来る)

等が揃ってないと、結局はどこかで歪みが出てくると思います。

 また、子供はどこかで反抗期を迎えますが、親が主体となった教育の場合、子供の反抗期を乗り越えられるかどうかが少々微妙です。私もよく、

「うちの子、私達(親)の言うことは全然聞かないんですけど、先生の話なら聞くんです。だから、何かあったらお願いしますね」

なんてお話を親御さんからされるのですが、これなんか分かりやすい一例でしょう。

 親と子の関係が上手く行っているなら良いのですが、そうでない場合、家庭内での教育が実質破綻し、結局は外部委託が大きくなり、学校へ行くのと変わらなくなってしまいます。

「中学校受験は親の受験」なんて言われたりするようですが、これは小学生の判断力が、そこまで高度に期待出来るものではないことの証左だと思います。結果、小学生以下での積極的不登校とは、そのものつまり「親の判断能力こそ全て」となるのでしょう。

5:積極的不登校は、変に「宗教化」する懸念がある

 何故か、不登校や引きこもり業界には、「教祖様」と、それを崇め奉る「信者」みたいな変な人達が一定数います。まあ、どこでもいるのかも知れませんが、ここにもちゃんといます。

 教祖様が発生する理由ですが、恐らく、不登校とか引きこもりの問題が、親御さんや当人にとっての「どうしようもない困難」となっているからで、そのため「問題を解決出来る人」=「神様」的な発想に陥りやすいのだと思います。個人的には不可思議な話なのですが、教祖様になりたい人も、教祖様にすがりたい人も、いつの世も一定数いますから、仕方ないのかも知れません。

 消極的不登校には、以上のような事情がありますが、積極的不登校にも、同様の事態が発生する可能性があります。キーワードとしては、「慈善系」「ヒッピー系」「左派系活動家」「貧困層」「無能力者層」でしょうか。(この辺の話は、また別の機会に書きます。)

 前にもどこかで書いたかも知れませんが、現在の長期高齢引きこもり周辺の親達やその支援者は、60年代の安保闘争で左派系活動家だったり、或いはその後も似た傾向を引きずった人達、つまりは、「自分達で責任取ることの出来ない人達」が中心になっています。責任取れる人達は、先に引きこもりから抜けてしまってるので、そうでないのだけが残っている、と言えば分かりやすいでしょうか。(一部、先天性障害の人達もいますけど、それは疾患上の問題なので別ですね。)

 宗教化の必要条件は、

「困難(貧困・疾病・失恋・死別・その他絶望的環境)」
「閉鎖空間(一般社会からの視線が皆無であること)」
「カリスマ的指導者(人を惹き付ける何らかの魅力を持った人物)」

で、最低でもこの三つが揃わないと機能しませんが、既に長期高齢引きこもりの周辺はこの傾向が顕著です。行き詰まった状態がある種の互選で「教祖様」を生み出し、結果的に宗教化してしまうのだと考えられます。

 これと同様に、積極的不登校は宗教化する懸念が部分的にあります。ただ、これは積極的不登校の成功者から発生するのではありません。彼等成功者の目的は、あくまで師弟の「教育」であり、社会への「教化」ではないためです。勿論、一部には変なのも出るかも知れませんが、余程の暇人出ない限り、相対的に見て被害も軽微でしょう。

 問題なのは、積極的不登校を選択したものの、資金不足や親の能力不足、判断ミス、状況変化に伴い、積極的不登校が失敗した場合です。この段階で、既に「困難(教育失敗)」と「閉鎖空間(家庭周辺のみの環境)」が発生していますので、後は「カリスマ的指導者」が発生するだけで比較的容易に宗教化します。

 この場合のカリスマ的指導者とは、最初期としては「積極的不登校の成功者」になります。まだ、積極的不登校の成功事例にすがりたい段階なら、こちらに寄ります。が、大体は上手くいかないでしょう。

 それが100%不可能となったとき、次に来るのは、「一般的な学校教育」への傾倒でしょう。ただ、これは元々公的なシステムですので、宗教化することなく、大体がここで止まると思います。要は、公教育がセーフティネットとなっているわけです。

 とは言え、元々学校に慣れていない子の場合、公教育での経過が良いかどうかは微妙です。ここから転落した場合、ルート的には消極的不登校と同じ状況になりますが、経歴が揺らいでいる分、普通の不登校よりもやりにくくなります。

 結果、ここで外すと、長期高齢引きこもりルートに陥ることになり、最後の宗教化が始まります。この最終段階での教祖様は、要は「傷の舐め合い」を許してくる人で、まさに本格的新興宗教となるでしょう。(因みに、長期高齢引きこもりの支援現場においては、この「傷の舐め合い集団」が既に発生しており、一般的な人々からすれば不可思議としか言えない持論を展開しています。)

 要点をまとめると、積極的不登校は、公教育でのセーフティネットから外れると、今の長期高齢引きこもりとそんなに変わらない状況に転落する可能性が結構高い、ということです。私自身が引きこもり最下層の破綻を知っているので、お薦めしにくいわけです。

学校は変化を、そして不登校の学生は学校への回帰を

 消極的不登校、即ち、今日の一般的な意味での「不登校」は、現在の学校環境に適合しないために発生する「やむを得ない事例」です。彼等にとって、学校という選択肢はすでにあり得ないものとなっており、それ故、別の手段が消極的に模索されていると言えます。実際、CARPE・FIDEMも、そのような子達の要望によって生まれています。

 一方、私もまだ18歳未満の参加希望者の子達には、必ず、「学校という選択肢があるなら、必ず一度は考えるように。ここ(CARPE)はいつでも来られるから」と話しており、積極的にここへ来るよう薦めることは、まずありません。私自身、行けるなら学校が一番だと思っているからです。(教育困難校のような底辺校は別です。あれは人格壊しますので。)

 私自身は、一般的な教育しか受けていませんし、進学も一般的な通常のものでした。そのため、学校の良さも悪さも最低限知っていますが、その上で、やはり現行では通常の公教育がベストな選択肢だと言わざる得ません。

 学校が一番だと思えなくなったなら、そのときに別法を考えれば良い。それがあるべき姿だと思いますし、最終的には、CARPE・FIDEMのような塾が必要なくなるように、公教育が次世代型に進化するのが望ましい姿です。(そうすれば、私も別の事業が出来て万々歳だから、というのはナイショです。)

 とは言え、今回の佐別当さん一家のような姿勢が悪いとは少しも思いません。何事も、先駆者は多大な苦労をするものですし、社会からの風当たりが強いのも当たり前です。しかし、あくまでそれを理解した上で、自己責任で行うなら何も問題はありませんし、いつか全く新しい教育システムが生み出される可能性さえあります。

 既存の教育システム以上のものを構築することが困難なのは、現実的には事実です。ただ、公教育の現場でも、変化の必要性は感じているようですし、その兆しも実際に見えます。時代に即した変化の一例として、公教育に良い変化を促すことが出来るとするなら、その努力も無駄にはならないでしょう。個人的には、このような姿勢は全面的に応援したいと思っています。

 あえてやって欲しくないことがあるとするなら、現在の一部の長期高齢引きこもりや手遅れ系家族会みたいに、「行政は自分達の言うこと聞けゴルァ!」とか「自分達のために金出せオルァ!」とか「社会がおかしいんじゃボケェ!」みたいな、最低限の常識さえわきまえない、下品な存在になって欲しくない位でしょうか。こうなると、そもそも社会全体からの指示を得られなくなってしまいますし、迷惑にしかなりませんので。

 反対意見も多々あるかと思いますが、佐別当さん一家に、周囲の人達からの好意的な支持が生まれ、結果として新しい教育のあり方が誕生することを楽しみにしております。

今年もクリスマス会実施します。

無事に模試も終了し、一段落です。後一ヶ月でセンターですが、最後の最後は気合い入れて行きたいですね。今年は国立大受験希望先もかなりバラけていますが、全力で勉強しましょう。

さて、勉強は勉強で忙しいですが、例年実施しているCARPE・FIDEMのクリスマス会も実施予定です。今年は趣向を変えて、ラウンドワンで執り行います。頭ばかり動かすのも良くありませんので、ボーリングやスポッチャで体を動かし、カラオケで口を動かし、居酒屋で胃袋を動かそうとかなんとか、そんな感じっぽいです。何となく、参加者の子達の意見でそうなりました。

恒例のプレゼント交換もします。予算三千円で好きな者を購入し、ビンゴで配分するアレです。(因みに、予算は全てCARPE持ちですので、自腹購入ではありません。)何故か、男なのに毎年乙女グッズが当たる人や、作れもしないキュベレイのガンプラが当たる人や、空撮機能付のヘリコプターが当たったのに、勝手に事務所の共有財産にされてしまう人とか色々ですが、今年も新しいネタが発生しそうですな。

勉強は勉強で集中的に、遊びは遊びで集中的に。メリハリを効かせて、今年も楽しい年末にしたいですね。

 

2018年度開講講座予約のお知らせ

平素は格別のご高配を賜り、まことにありがとうございます。

2018年度開講講座の開設と予約受付について、以下にお知らせ致します。予約は随時受け付けておりますが、面談受付の関係上、下記講座開講の一週間前までにご連絡下さい。

尚、例年1月は面談が集中することから、ご希望に沿えない可能性がございます。参加をご予定の方は、お早めのお申し込みをお願い致します。

 

1:大学受験理系基礎  2018年2月1日~

中学生範囲既習者向け

目標大学:地方国公立理工系学部 明治・青山・立教・学習院・中央・法政他

2:少人数制個別対応  2018月3月1日~(希望に合わせて先行開始。)

小規模授業希望者向け

目標大学:任意設定

3:センター国語    2018年3月5日~

国公立大学予定者向け

目標大学:国公立大学全般

4:中学範囲速習    2018年4月1日~

中学生範囲未修者向け

目標大学:日本・東洋・駒澤・専修他

5:大学受験理系応用  2018年4月1日~(2017年度理系基礎の補講は3月末まで。)

高校生範囲既習者向け

目標大学:帝大他国公立医・獣・薬・理工系学部 早稲田・慶應他

6:センター倫理・政経 2018年4月1日~

国公立大学予定者向け

目標大学:国公立大学全般

7:医療系論文面接   2018年4月1日~

医学部受験予定者向け

目標大学:国公立・私立医学部

8:医学短期集中    2018年4月1日~(希望に合わせて先行開始。)

医学部受験予定者向け

目標大学:国公立・私立医学部

9:訪問形式総合支援  2018年4月1日~(内部参加者優先。)

小規模授業希望者向け

目標大学:任意設定

 

以上、ご確認をお願い致します。

2017年度冬期休業期間のお知らせ

平素は格別のご高配を賜り、まことにありがとうございます。

年末年始の冬期休業期間について、以下お知らせ致します。

休業期間:2017年12月28日(木)~2018年1月3日(水)

尚、自習室は年末年始を通じ、全て通常通り開室しております。また、大学受験理系基礎・大学受験理系応用の補講は、別途授業にて連絡致します。

ご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。

何故長期高齢引きこもりは叩かれるのか?

「当事者側が仮にも目標を達成したいなら、こういう主張はやめた方が良いと思うんだけどなあ・・・・・・」

と、言いたくなる記事が一つありましたので、ご紹介。

 

「ひきこもり就労支援、半数の自治体が断念」当事者や家族から疑問の声

https://news.yahoo.co.jp/byline/masakiikegami/20171201-00078769/

 

筆者の方の要点をかいつまんでみると、

1:現場取材もしてない産経新聞のトバし記事が、

2:厚労省の意図とズレているので、

3:高齢引きこもり達がキレました。

4:自治体や国は、高齢の引きこもりにもっと寄り沿うべきであり、

5:「仕事しろ仕事しろ」ではなく、「大丈夫だよ。守ってあげるよ」という福祉的視点を持て。

でしょうかね。

 

まあ、言いたいことは分からんでもないんですけどね。ただ、長期高齢引きこもり当事者は、筆者の方も含めて、何か行っちゃいかん領域に駒を進めているのがね、いかにも危ないと思いましてな。警告含めて、逆の視点も提示しておきましょうか。まあ、過去の経験からすると、言っても無駄な気がしますが・・・・・・。今回のは長いですが、一応重要なことなので。

 

>1:現場取材もしてない産経新聞のトバし記事が、

筆者の方が、最初の段落で、

>自立できなければ生活保護に移行し、社会保障費がさらに増大することが懸念されている。

>いったい、「懸念」しているのは、誰のことなのか。

と問を放っているのですが、後段読んでもそれに対する回収が見当たらないので、偉そうですが、産経新聞の記者の方に代わって私が回答しましょう。

要は「納税者全員です」よ。「懸念している」の主語は、「まっとうな納税者」、つまり、普通の人達ほぼ全員です。

そりゃそうだ。実際、自立出来ないなら、生活保護他公的扶助に転がり込むのは目に見えているのですし、そこをカバーするのは一般的な納税者。懸念するのは普通でしょう。だって、自分達の税金を何にもしてない引きこもりに使われるんですもの、懸念しますよ。別に変なことは言ってないです。

つまり、産経新聞としては何も作為的にトバしているのではなく、よくある一般論をまとめただけ、ということだと思います。

 

>2:厚労省の意図とズレているので、

私の同期にも厚労省のキャリア官僚をしているのがいて、たまに飲み会で当たり障りの無い話を聞いたりしますが、基本的には、

「役人はローテーション組んで代替わりで連続的に業務を続けて行くものだから、立場で発言しないといけない。個人として思うことがあっても、対外的にはそういった発言は事実上出来ない。どこで言質取られて、変な話をされるか分からないし」

だそうですな。

まあ、当たり前ですよ。組織のシステムって、そういうものですもの。別段、お役人でなくても、大きい組織はどこも似たようなものですし。

で、「厚生労働省」って漢字見れば分かりますが、ここは基本的に弱い人達を守るための官庁です。2001年の省庁再編のときも、厚生省と労働省が合体して出来た訳ですし、内部部局の構成を見ても分かるように、「高齢者」「障害者」「子供」「労働者」等々、弱い立場の人達守るのが仕事です。よって、腹の内がどうであれ、対外的には「弱い人達を守っていますよ」アピールは絶対に必須。そこ外したら、袋叩きに遭いますからね、変な人達に。

従って、この手の話題で引きこもり当事者サイドから何か言われたら、当事者サイドに寄り添うような言い方しないといけないんですよ、「絶対」に。産経新聞寄りの話なんかしたら、仮に正しくとも、どんな叩かれ方するやら。私が厚労省のお役人だとしても、同じように言いますよ。まして、家族抱えて子供なんかいたら、出世に響くことしたくないですし。

行政関係者は、何も悪くなくても叩かれる存在です。だって、叩きやすいんですもの。行政側が一般市民に反撃することなんて出来ないので、言いたい放題フルボッコ出来る訳で。しかも、「行政が悪い!」とか何とか言っておけば、何も考えていなくても、一応考えあるっぽく聞こえるでしょ? そう考えれば、彼等が引きこもりサイドにとって都合の良いことしか言わない(言えない)のは当然じゃないですか。

ノイジーマイノリティ(ウルサイだけの少数派)って、自分達の主張ばかりで、相手の立場考えないで物言うので、実は一番面倒臭い。面倒なのには、「嘘ではない程度で、それらしい誠実なこと」言って静まって貰うに限る。

普通に考えたら、その事情は大方ココでも同じことじゃないんですかね?

 

>3:高齢引きこもり達がキレました。

例えば、私がボロいミニバンに荷物積んで旅行してる最中、誰も入らないような山に入って、途中でガス欠起こしたとするじゃないですか。先のこと見越してガソリン入れるの忘れてて、後で気付いたけど、時既に遅し。車は全然動かないし、誰一人として通りがからない。携帯も圏外で、JAFも期待出来ない。参ったなあ、とか思うわけですよ。

と、そこへ一台の車が通り掛かる。大型のハイエースでね、どこかで工事でもあったのか、作業員の人達が大量の機材や大きな工程表と一緒に、疲れた顔して乗ってます。

でも、運転手さんが気付いて止まってくれて、

「どうした、あんちゃん。パンクか?」

なんてね。もう、地獄に仏です。

で、私がガス欠起こしたこと伝えると、

「なら、こっちのを少し分けてやろう。会社のもんだが、困ったときはお互い様ってな(笑)。俺からも、会社には話しといてやるから」

と、ありがたいことに、わざわざ給油口から燃料を抜き取ってくれるというのです。やれやれ、助かった。これで帰れる。ほっと安堵の息。

ところが、ここで気付く訳です。自分の車はガソリン車、ガソリンで動く。相手はディーゼル車、軽油で動く。ガソリン車は、軽油では走らない。

「おっと、こりゃ参ったなあ……」

運転手のおじさんも、ホース片手に困惑顔です。ですが、ハイエースも人と機材で一杯で、私が乗る余地はありません。

という設定で、私の次に来る発言は何でしょう?

一つ目が、

A:「結果は残念ですが、ご配慮頂き、ありがとうございます。では、大変恐縮ですが、町に降りた際に、私のことを町の誰かにお伝え頂けないでしょうか? 最終的には、JAFの方に助けて貰いますが、それまで私はここで待っております。あくまで自分のしでかしたことです。自分で責任を取りますので」

二つ目が、

B:「ああん? 軽油じゃ走んねえだろ、バカかてめえ! 俺は苦しいんだ、今すぐ俺を助けろ! 丁度良い、てめえらの機材と工程表ここに置いて、俺をその車に乗せろ! 大体よ、今の俺がこんなところで立ち往生してんのは、てめえらがディーゼルなんか乗ってるからだろ。てめえらが悪い!」

言いたいこと分かりましたか? 何も考えずAを選ぶのが、「普通の社会人」。Bを選んでいるのが、今回の記事で言う「キレてる引きこもり」です。

「私」=「引きこもり当事者」

「運転手のおじさん」=「国・自治体職員の引きこもり担当のお役人の方々」

と言えば分かりますかね? 分かりやすくするために、もう一回書きましょうか。

 

例えば、私(引きこもり)がボロいミニバンに荷物積んで旅行(後先のトラブル考えないその場限りの生活)してる最中、誰も入らないような山(普通の人が通らない引きこもりという生き方)に入って、途中でガス欠起こした(金欠で身動き取れなくなった)とするじゃないですか。先のこと見越してガソリン入れるの(将来のための貯蓄することを)忘れてて、後で気付いたけど、時既に遅し(手遅れ)。車は全然動かない(外に出られない)し、誰一人として通りがからない(知り合いとも疎遠になる)。携帯も圏外(社会がどうなってるのか不明)で、JAF(親)も期待出来ない。参ったなあ、とか思うわけですよ。

と、そこへ一台の車が通り掛かる。大型のハイエース(国・地方自治体)でね、どこかで工事(仕事)でもあったのか、作業員の人達(国・自治体の職員の方々)が大量の機材や大きな工程表(課せられた業務)と一緒に、疲れた顔して乗ってます。

でも、運転手さん(引きこもり担当の方)が気付いて止まってくれて、

「どうした、あんちゃん(引きこもり)。パンク(人生詰んだの)か?」

なんてね。もう、地獄(自室)に仏(希望)です。

で、私がガス欠(キャッシュ切れ)起こしたこと伝えると、

「なら、こっちの(税金)を少し分けてやろう。会社(国民)のもんだが、困ったときはお互い様ってな(笑)。俺(引きこもり担当公務員)からも、会社(国民)には話しといてやるから」

と、ありがたいことにわざわざ給油口(一般会計予算)から燃料(税金)を抜き取って(配分して)くれるというのです。やれやれ、助かった。これで(社会に)帰れる。ほっと安堵の息。

ところが、ここで気付く訳です。自分の車はガソリン車(福祉的援助必要)、ガソリンで動く(福祉的援助がないと動けない)。相手はディーゼル車(就労支援準備)、軽油で動く(就労支援薦めてくる)。ガソリン車は、軽油では走らない(福祉必要なのに、就労を薦めてくる)。

「おっと、こりゃ参った(ニーズが合ってなかった)なあ……」

運転手のおじさんもホース片手に(支援窓口で)困惑顔です。ですが、ハイエース(国・地方自治体)も人と機材(他の行政事務)で一杯で、私が乗る(引きこもりの問題をねじ込む)余地はありません。

という設定(状況)で、私(引きこもり)の次に来る発言は何でしょう?

一つ目が、

A:「結果は残念(ニーズにギャップがあったの)ですが、ご配慮頂き、ありがとうございます。では、大変恐縮ですが、町に降りた(次の会議の)際に、私のこと(引きこもりの現状)を町の誰か(一般の人々)にお伝え(問題提起して)頂けないでしょうか? 最終的には、JAFの方(親)に助けて貰いますが、それまで私はここで待っており(自分でなんとかしようと思い)ます。あくまで自分のしでかした(いつまでも引きこもっている)ことです。自分で責任を取りますので」

二つ目が、

B:「ああん? 軽油(就労支援)じゃ走んねえ(脱ヒキ出来ない)だろ、バカかてめえ! 俺は(引きこもりで)苦しいんだ! 今すぐ俺を助けろ! 丁度良い、てめえらの機材と工程表(他の行政事務)ここに置いて(二の次にして)、俺をその車に乗せろ(引きこもりの問題を優先しろ)! 大体よ、今の俺がこんなところで立ち往生してん(引きこもってる)のは、てめえらがディーゼルなんか乗ってる(就労支援なんかしてる)からだろ。てめえらが悪い!」

とまあ、こんな感じ。違い、分かりますかね?

当事者側は「俺達はそんなこと言ってない!」とか言うかも知れませんが、記事みたいな主張してると、普通の人達の目にはこんな風に映るんですよ。気分悪いでしょ? 関係している行政関係者の方なら、ストレートにガチ切れしても普通じゃないですかね?

施しを受ける側はね、施しの多寡や内容を身勝手に評価するもんじゃない。批判なんて、もっての外。施しそのものにまずは感謝すべきであり、感謝の念の表明こそ、最初にするべきことです。要望があるなら、その後で丁寧に頼めば良い。

文面にも、

>ほとんどのひきこもりの支援が「就労」前提の支援ばかり、行政は上から目線の支援ありき

>情報も少ないし・ハードルも高い。当事者の意向なんて、ほとんど、無視。言うても、無駄の“空気”もあるから、当事者から、拒否されて当然です

>などと批判した。

とありますが、中年になっても平気な顔してこんなこと言ってる人達だから、いつまでも引きこもりなんじゃないんですかね?

「あの野郎、肉欲しがってる俺に、上から目線で野菜投げやがった! 許せねえ!!」

「俺は酒が飲みてえのに、水なんて寄越しやがった。要求しても無視するしよ! 言っても無駄だ! 俺が拒否すんのも当然だろうが!!」

なんてこと言われて、誰が次の施しを考えますかね? まともな人だったら、アホ臭くってやってられませんよ。それでも動いてくれているのは、彼等が全体の奉仕者である公務員だからであって、それが義務だからです。縛りの中で、体にも限界がある中で、無理を承知でやることをやってくれているのです。

で、確認しましょうか? 引きこもりと公務員の方と、一体どっちが「上から目線」なんでしょうかね?

自分達で勝手に下に落ちておきながら、普通の人達の視点を「上から目線」などと吠えるのは、お門違いでしょう。それが嫌なら、自分らで普通のレベルに上がるのが筋です。そうすれば、「上から目線」だなんて感じもしないでしょうに。自分が下に下がってるから、普通の人が上に見えるんです。原因は行政関係者ではなく、引きこもり当事者側にあるんですよ。

施す側も人間です。お金を出すのは納税者。納税者のお金の使い道を決定するのが政治家。政治家の決定を実行化するのがお役人。皆人間です。義務だから、引きこもりがおかしな主張していても黙っているかも知れないけど、きちんと皆感情があるんですよ。

それを無視して、自分達の要望ばかり突き通そうとしているから、引きこもりは嫌われる。特に、長期で高齢で社会経験に乏しいのは。ものを頼むならね、まずは最初に「ありがとうございます」から始めなさいな。その次に「でも、今必要なのは〇〇で・・・・・・」と続ければ良いのですから。

仮に引きこもりで社会経験に乏しく、こういったマナーが分かってないとするなら、今ここで学びなさいな。いい歳なのに、義務も果たさず「上から目線」なんて言ってキレてると見苦しいですよ。当たり前のことじゃないんですかね? それとも、長期引きこもりの間では、行政関係者はどんなにぶん殴っても良いっていう、不文律でもあるんですかね?

 

>4:自治体や国は、高齢の引きこもりにもっと寄り沿うべきであり、

こういった厚かましさが、良い意味での福祉国家観を破壊していることに気付かないんでしょうか?

「資本主義だけではダメ。貧富の格差激しいし、恐慌は怖いでしょ? でも、社会主義だけでもダメ。弱者保護はスローガン的には良いけど、効率悪いし、優秀な人が伸びないから。なら、上手くバランス取りましょうよ、お互いの良いところをくっつけて」

という発想でできた今の先進工業国の修正資本主義的行政システムですが、ここに来て、「出来もしない理想論ばかり述べる、つけ上がった自称弱者とその賛同者達」が重荷になってきた訳です。

社会主義の場合、つけ上がれば目立ちますし、目立てばシベリアダッシュ&強制労働の「フルコンボだドン!」で社会問題にはならなかったのでしょう。関係者は強制労働の途中で死亡しますから。正に、オソロシアならぬ、オソ連邦なわけで。

が、今の日本ではそんなこと出来ません。「弱者は守られなくてはならない」という、先進国共通のありがたい政治ドクトリンがあるからです。しかし、それに目をつけた自称弱者達は、

「自分は弱者だ! 言うこと聞けや! 言うこと聞かないと、ポリティカル・コレクトネス的に社会的制裁加えてやるぞゴルァ!」

と、より一層つけ上がり、つけ上がりに歯止めが掛からなくなる。引きこもりも同じ。

「べき」論かざすのは自由ですが、それは義務を果たし、他者のために身を粉にしている人達にこそ許されるものであり、何もしていない者が勘違いして振りかざすものではない。違いますかね?

 

>5:「仕事しろ仕事しろ」ではなく、「大丈夫だよ。守ってあげるよ」という福祉的視点を持て。

今更そんなこと言わんでも、10年以上前から、長期高齢当事者とその周辺では、生活保護も含めた「引きこもりの福祉化」を声高に唱えていましたよ。まだ言い足りないのでしょうかね? それとも、まだ達成出来ていないので、駄目押ししようとしているのでしょうかね?

と言うか、そもそも「引きこもりの福祉化」は、彼等の最終目標です。引きこもりの課題が福祉問題化すれば、

1:当事者は働かなくて済むので万々歳。

2:親も、家庭内の面倒事が減るので万々歳

3:支援側(福祉関係者)は、自分達の守備領域が広がるので万々歳

正に、「引きこもり問題三方良し!」。三方良しと来りゃ、近江商人も真っ青な商売繁盛の基盤を押さえておりますなあ。

「売り手良し 買い手良し 世間良し」

ならぬ、

「ヒキって良し 放置して良し 保護して良し」

でしょうかね。一点だけ違うとするなら、近江商人は、社会一般で普通に仕事をしている人達をバックアップしますので、国の経済を好転させますが、引きこもりは、社会一般で普通に仕事をしている人達に租税負担を押しつけるので、国の経済を停滞させますな。引きこもり一人に月10万かかるとして、60万人で月額600億円! 年間1兆2000億円! ドヤア!!

どのみち未来の無い者に月10万払うなら、小さい子供のいる子育て世代に月1万出した方が良くないですかね? それとも、こういった発想は少数派なのでしょうかね?

とまあ、昔からおかしいと思ってたんですよ。引きこもりの問題は、最終的に就労に繋げないことには、一般の人々の負担だけがドンドン増加して、歯止めが効かなくなる。それなのに、長期当事者の周辺では、そんな話はほとんど出てこない。それどころか、「就労は目標ではない」「もっともっと当事者の側に社会が合わせて」「福祉としてのあり方が重要」的な話が幅を効かせている。これは何故なのか?

理由は単純ですよ。福祉化した方が、関係者全員が楽なんですもの。そりゃそうなるわな。私が当事者でもそうしますよ、楽だし。親だとしてもそうしますよ、楽だし。支援者側でもそうしますよ、楽だし。

「仕事しようと頑張ったんだけど、ダメだったんだ。だから、福祉でお金出してね、僕が死ぬまで。無論、お金は皆が出してね。まあ、僕は死ぬまで出さないけどね」

これが彼等の最終的な狙いです。

特定の流れが固まっているときは、何らかの利害関係者がいて、利害が全て同じ方向を向いてるってことでしょう。今回は、それが「引きこもりの福祉化」だっただけのことでね。

因みに、

>しかも、記事には、<自治体の中には経済負担を削減するため、約3割が「手当」として対象者に金銭を給付していることも判明>と記されていた。

>「判明」という表現は、まるで対象者への手当の給付が問題であるかのようにも受け取れる。

の部分ですが、問題ある部分はきちんとありますよ。何かって? 水増し請求ですよ。これは私も現場で見ましたし、水増しに協力するようにまで言われましたもの。断ると怖そうですが、違法行為も出来ないので、自費で寄付したこともありましたっけか。今も変わってないなら、かなり長期間常態化しているはず。

現場のボランティアの人でも、おかしいと思っている人達チョイチョイいたんですけどね。随分昔にも、現場からリークがあって、この話を別のところでしたら、古参の長期高齢引きこもりから、

「裏切り者は誰だ!」

ってな具合になって、彼はボランティアを辞めさせられたそうで。怖いねえ。会社の不正を訴えたら、退職に追い込まれた従業員みたいです。

行政側の方は、お金出すならこの辺きちんとチェックした方がいいですよ。末端は結構適当です。「弱者=清く正しい」なんていう社会主義的嘘は、ソ連が潰れて、中国が事実上資本主義化して20年以上経ってる訳ですし、朝日新聞他左派系新聞社や言論人からも嘘が頻発している今、流石に皆見抜いているでしょうし、丁度良いタイミングじゃないでしょうか。

「引きこもり=心優しい」なんて、分かりやすい嘘ですよ。もっともらしい「弱者聖人説」で、昭和から平成に至るまでに、同じ論法で何度バグったことか。そろそろ元号も変わる訳ですし、毒にしかならん嘘は捨ててしまって良いんじゃないでしょうかね。

 

分かりやすくまとめると、今の長期高齢引きこもりの周辺は、当事者が「仕事して自立して」なんて高度なことはほぼ誰も考えていなくて、いかにして社会全体に上手く寄生するか、その方法論しか考えていないってことです。親が高齢で寄生出来なくなったんで、次は社会全体に薄く広く、バレにくいように寄生しようとしている訳ですな。「ステルス寄生」とでも言えましょうか。

長期の当事者を見ていれば、「自立なんてどうせ無理」ってことは、現場の人ほど良く理解していますし、当事者本人もそう。だから、「福祉化」とか何とかでそれらしいことを言って、長期的にお金を引っ張ろうとしているわけで。

賢い戦略ではありますよ、長期高齢当事者の周辺で発生している手法は。もっとも、他者(社会や行政)を悪者に設定してお金を引き出そうとしているあたり、韓国や北朝鮮の慰安婦問題なんかと何も変わらん訳ですが。まあ、被害者ビジネスです。

結局割を食うのは、普通に仕事をしている一般の人達ってだけで、産経新聞の記者の人は、それを言いたかっただけでしょうな。普通の人の普通の意見ですよ。それをおかしいと感じるなら、単に当事者サイドの思考が歪んでいるだけだと感じますが、違いますかね?

もっとも、

>生活保護を受け取れるようになることは、ひきこもりにとって自立の一つのかたちではないのか

みたいな話をする人達なら、何言っても無駄かも知れませんが。初めから、寄生が狙いだと宣言してしまってますし。(まあ、こう話すと、またどこかから「生活保護は寄生なのかブルああああ!」みたいな残念な人達が湧くので、やめておきましょうか。)

最後に、家族会のスタッフの話として、

>「実際は希望していても行けないのに、必要性がないかのように憶測で書かれている。たとえ拒否感があったとしても、まず必要性を理解してもらうことが専門家の仕事。拒絶する人の気持ちも十分に理解したうえで、どう受け入れてもらえる場をつくり出すかのほうが先決ではないか」と憤る。

とありますが、新聞への批判はまだ良いにしても、何でもかんでも行政行政行政行政と、子供じゃあるまいに、行政関係者が無敵だとでも思ってるんですかね? 人間ですぜ、彼等だって。有能かも知れませんが、万能ではないのです。人員にだって限りがあるし、予算だって決まってる。最近は非正規スタッフだって多くて、その中でやりくりしてるのに、「憤る」ってのはいかがなものかと思うのですがね。

また、筆者の方の意見として、

>事業の制度設計や支援の姿勢、方法に、何かしらの課題があるとみるのが、断念の理由から導き出せる結論であり、「生活保護への移行」や「社会保障費の増大」への懸念ではない。だから、この記事は破たんしているのだ。

とありますが、別段破綻なんてしてないですよ。寧ろ、姿勢は一貫している位でしょう。

引きこもり支援が上手くいかないのは、そこに行政上の課題があるからというよりは、寧ろ現実問題として制度設計も支援の姿勢も人員と予算の関係で限界があり、「どのみち頑張っても不可能なだけ」なんですよ。特に長期高齢当事者なんていう最もメンドウな人達に、どんだけの予算と人手が必要になるのか考えてみれば分かるでしょう? 客観的に見れば、「どう頑張っても無理」って現状があるだけです。チョロッと話して改善するならまだ良いですが、そんなチョロい話でないこと位、実際に見れば理解は容易です。

逆に言えば、分かっているからこそ、「福祉福祉」と言いたくなるんでしょう。だったら、素直に言えば良いんですよ。

「長期高齢引きこもりはもう手遅れです。社会復帰無理なので、国民の皆さん、ご迷惑かも知れませんが、彼等のために浄財をお願い致します」

と。これなら、まだすっきりしてて気持ち良いです。「福祉」というワードでカモフラージュを仕掛けて、結局「寄生」を狙うなんて、詐欺みたなものじゃないですか。

記事全体から、

「行政の怠慢と努力不足、そして産経のトバシを糾弾する!」

的な方向性に話題を持っていっていますが、彼等のミステイクは、

「行政が無敵だと勘違いしていること」

「産経は、引きこもり当事者と支援現場の要求を述べているのではなく、今の当事者と支援体制に対する社会一般からの風当たりの強さを述べている」

という二点に、全くもって考えが至ってない点にあります。行政は完璧でも超人でもなく、あくまで普通よりちょっと優秀な人達の集合体なだけです。評価されれば嬉しいし、無遠慮に叩かれれば不愉快にもなります。産経は記事をトバしているのではなく、寧ろ今の支援者や当事者側の傲慢、身勝手、理不尽、無責任を見抜いて、それを記事にしているだけです。当事者側も支援側も好き勝手なこと言ってるから、「あんたらいい加減にしたら?」ってことを、オブラートに包んで言ってくれてるだけです。

過ちを正そうとしてくれているのですから、感謝する位がスジなんじゃないでしょうかね?

最近は左派系政治家によく見られる傾向ですが、他者を批判するのが好きな人は、どういう訳か自分が批判されることを嫌いますよね。自分達のミスは棚に上げて、相手だけを叩くっていうアレね。

長期高齢引きこもりの周辺も、そろそろ自分達の過ちを一度は省みてみても良いのではないでしょうか。

「何故長期化するのか?」 ⇒ 「そもそも、社会に対する姿勢がおかしいから」

とか、少しくらい考えんのでしょうか?

長期高齢当事者とその周辺の人々は、今回のリンク先の記事を読んだ普通の一般の人々がどのように感じるのか、客観的に考えてみることを個人的にお勧めしますね。でないと、「引きこもりの福祉化」という名の、

「社会一般に多大な負担を押しつけるけど、自分達だけが幸せになれる崇高にして偉大なる最終目標」

が、あっさりと潰れてしまうかも知れませんよ? ソ連が潰れたみたいにね。

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