不登校・引きこもりからの大学進学塾

「貯蓄」の重要性

「余ったお金は無駄使いせず、何かあったときのために貯金しておきなさい。いつか必ず助けになるときが来るから」

至って当然の話ですが、私の母が幼少期から繰り返し言っていたことです。普通の家庭なら、恐らく大なり小なり同じようなことを言われていたのではないでしょうか? 預金を基盤とした間接金融システムの収益性が下がり、結果として株式投資他直接金融への傾斜が顕著になりつつあるようですが、それでも尚「貯蓄」に対する意識は根強いものがあるような気がします。

ただ、不登校や引きこもりの渦中にいる人々は、お金だけでなく、時間の貯蓄性についても考えてみるべきだと、私は考えています。

もちろん、時間はそのままの形では貯蓄出来ません。誰に対しても一日24時間しか流れませんし、しかも使い切り制です。「今日は12時間しか要らないから、明日36時間使おう」なんて器用なことは出来ません。どうあっても、24時間使うしかないのです。

では、その場合の時間の貯蓄性とは何なのか? 私は、その「使い方」にこそ、貯蓄性があると考えています。例えば、「一年間何もしないまま漫然とネット動画を見ているだけ」という不登校の子は多いようですが、同時に、一年間を「とりあえず英単語の勉強に当ててみた」とか「必ず夕方に3キロのマラソンに出ていた」のような子達もいます。

これだけ見れば、ただ目先の時間の使い方が違うだけのようにも見えますが、実際の貯蓄性はその後に発生します。

仮に、先ほどの子達が、どこかで進学のための勉強を始めたとしましょう。するとどうなるでしょうか?

英単語を勉強していた子は、単語の知識が豊富なため、その分だけ英語の勉強時間を削減することが出来ます。事前に済ませている分だけ、自然と未来の時間が余ります。結果として、他の科目に時間を配分することが出来るでしょう。

体を鍛えていた子は、他の子よりも体力的に余裕があるため、風邪や怪我で使用不能となる時間を削減することが出来ます。事前に鍛えている分だけ、自然と未来の時間が安定的に供給されます。結果として、勉強全般が予定通りに進行します。

しかし、漫然とネット動画を見ていた子はどうなるのでしょう? 知識が不足しているため、、その分だけ後から多大な時間を投入して学びなおさなくてはなりません。また、体力に乏しいため、風邪もひきやすく怪我も多くなり、無駄に流れる時間が増加します。事前に何もしていなかった分だけ、自然と未来の時間が不足します。結果として、同じ成果を上げるのに、より多くの時間が必要となります。

時間そのものは、お金のように数値として貯蓄することは出来ません。時間預金なんてものは存在しませんから。ただ、今現在の時間の使い方を工夫することで、最終的に未来の時間が増えることは十分にあります。自分の能力を高めることで、未来の世界でより短時間かつ効率的に物事を処理することが可能になるためです。未来の使用可能量が増加するという観点からすれば、これは事実上「貯蓄」と同義です。

以上のように、時間を貯めたいと思ったら、私は今ある時間を有効に使うことをお薦めしています。特に、まだ10代20代で、自由に使える時間の多い若年層の子達には。

人間誰しも、年をとれば能力が衰えます。昔出来たことも、少しずつ出来なくなってきます。仮に出来ても、より多くの時間がかかるようになります。学ぶのも、若いときほど有利ですし、時間のロスが少なくてすみます。何事も、「早いうちから」が良いのです。

私は仕事柄、この「時間貯蓄」を怠ったがために、40過ぎて致命的な時間不足に陥り、どうにもならなくなった残念な人々を沢山見てきましたが、彼らにはお金も無ければ時間もありません。全ては、若いうちの貯蓄を怠ったがための結果です。何とも愚かしい惨めな生き方ですが、どうしようもないことです。「貯め」のない人生とは、結局そういうものなのでしょう。

不登校や引きこもりであっても、より早いうちから貯蓄の重要に気づき、先手先手を打って未来に備えて欲しいと思っています。母ちゃんの言う、

「余ったお金は無駄使いせず、何かあったときのために貯金しておきなさい。いつか必ず助けになるときが来るから」

という言葉は、時間に対しても、全く同じことが言えるのですから。

親御さんの姿勢が変わってきた気がします。

 CARPEFIDEMの参加希望者には元々そのような傾向があるにはあったのですが、特にここ最近、親御さんの姿勢が良い意味で「傾聴重視」から「自立重視」へ向かっているような気がします。

 一昔前までは、

「不登校の子や引きこもりの子は心が繊細だから、親が守ってあげないといけないよ。丁寧に寄り添って、傾聴してあげることが大切なんだよ」

のような意見ばかりで、何というかもう家庭によってはベタベタネチャネチャな親子関係になってしまって、30歳過ぎた中年男性でも「ママと一緒」「一緒じゃなきゃ暴力」みたいな気持ちの悪い関係が発生していたものですが、流石にそれは不気味と感じた家庭が多かったのでしょう。最近は、「子供が自立出来るようになるにはどうしたら良いか?」という方法論へスライドしているような気がします。

 先日の面談でも、

「親の責務は子の自立。どんな子供が生まれるかは分からないけど、責務は皆一緒」

と話されていたお母さんがいらっしゃいましたが、本当にその通りだと思います。

 寄り添いや傾聴の意味は私も良く理解していますが、具体的方法論を無視した一部の心理系支援を中心に、不登校や引きこもり対策として、ネチャ付いた親子関係に誘うパターンがまだまだ残っています。一頃はそんなブームもありましたが、これではスパルタ&暴力重視の対策と何も変わりません。暴力を否定して発足した人々が、表面的に同調するだけで、「自立抑制」という「見えない暴力」を振るう様は、ミイラ取りがミイラになるの典型のような気がします。

 具体策の無い寄り添いや傾聴は、ただの精神的依存しか生み出しませんし、その結果が自立の出来ない惨めな人格に繋がることは、既に自明なものとなっています。

「『学校へ行かなくても良い』なんて主張する人達は無責任だ。だって、その後の私のことは何も考えてないんでしょ? とりあえず、目先の厄介毎から目を背けようとしているだけじゃないの?」

 不登校の子達からこんな意見が聞こえ始めている今、表面的な優しさは、ただの欺瞞に過ぎないことを、大人の側が正しく理解すべきなのでしょう。

 人口減少が確定的な日本において、「助け合い」には大きな価値がありますが、「依存」はただの害悪でしかありません。依存を否定的に捉える家庭が増えれば、社会全体も気持ち良い場所になるでしょう。ここ最近の変化を、私は大変好意的に見ています。

 

第1回基礎クラス懇親会を実施しました。

 まだ後から参加する予定の方も複数名いらっしゃいますが、タイミング的にキリが良いので新年度基礎クラスの懇親会を実施しました。今回は廃墟さんと野球君を主賓とし、富山さんとジギング君、ポッターさん達総勢6名で、近所にあるステーキ肉の美味しいイタリアンレストランにて。

Eco「勉強に飽きてきた辺りの5月上旬に、小旅行に行こうと思いますが、どこへ行きたいですか?」

廃墟「神社巡りと廃墟巡りに行きたいです」

富山「廃墟?」

廃墟「一人だと行けないけど、機会があったら一度行ってみたかったんです!」

ポッタ「ほほう」

ジギ「……」

Eco「(今年もまた、随分とコアな子が来たな……)」

廃墟「山奥の神社とか希望です。古びた感じの。後、軍艦島も行ってみたい」

富山「長崎の? それなら、夏の旅行を軍艦島にしたら?」

野球「あ、それなら自分ついでにフクオカドーム希望です。ソフトバンクホークス」

ギジ「長崎だったら、五島列島も入れて下さいよ」

ポッタ「わ、私の海外旅行は……」

 と言うわけで、「春の勉強飽きたとき用旅行」は、「家修理&海釣り&廃墟探訪」となりました。また、次の参加者が決まったら、第2回目を実施しましょう。

 

 

2018年度大学受験理系応用クラスの準備授業が開始になります。

3月15日から、大学受験理系応用クラスの準備授業が開始になります。本来は4月1日からの開始となるのですが、5月の模試に間に合わせたいという要望が多いのと、「うちの子が、家でモンハンばっかやってて……」というご要望に合わせて、急遽再開時期を早めました(笑)。正式には4月からの開始となりますが、それまでに忘れがちな基本的内容を再確認することになりそうです。

それにしても、ここ数年の3月は忙しい気がします。今思えば、10年前の3月はもう少し余裕がありました。私も、追い出し会をした後で「ちょっくら旅に出てくるか」みたいな余裕があったのですが、今はそうもいかないですね……。規模が大きくなったこともあるのでしょうが、私自身が公私両面で抱えるものが増えたせいもあるのでしょう。

いつだったか、卒業生の子達と飲み会をしていたときに、話題になったテーマがあります。

「子供のときは、自分の体は自分だけのものだった。少なくとも、自分ではそう思っていた。だから、自分が否定されるのが怖かった。自分が否定されると、100%自分が否定されたように感じるから。

でも、成長して他人と関わるようになると、自分の体は自分だけのものではなくなってしまった。他人の関与が大きくなり、自分の体なのに他人が何十人、何百人と入ってきて、今の自分を構成するようになった。その結果、否定されるのが怖くなくなった。仮に否定されても、それは自分への否定だけではなく、自分を取り巻く様々な人々への否定でもあるから。否定が分散されて、最終的な自分へのダメージはどんどん小さくなった」

つまり、抱えるものが増えると身体的には大変になるけど、それに反比例して「自我の確立」に関連する精神的負担は減る傾向にあるということです。逆に言えば、抱えるものが少ないと、どうしても「自我の確立」の問題が頭をもたげてくる。これは、自我の課題を残したまま子育てを始めたお母さんが、子供の自立と同時に「自我の確立」の問題に再直面するのと同様の話題でしょう。

逆説的ですが、抱えるものが多いほど、精神的に余裕が出るというのは不思議な話です。

「若い奴が暇してるとロクなことないよ! 死にもの狂いで働きな!!」

という田舎のばっちゃの意見は、この事実を端的に射貫いた、「昭和の知恵袋」なのでしょう。

今はこのような強制をされると、やれ「発想が古い」だの「自由がない」だの、酷い人になると「軍国主義的」だのと言い始めるので、誰も何も言わなくなってしまいましたね。人生を楽しむ一番の近道なのに、馬鹿な話です。結果、「自由に殺される哀れな引きこもり」の誕生というわけです。自由をマネージメント出来る有能な人なんて、実際はほんの一部で、大半は自由に押し潰されるだけなのに、そこまでは配慮がいかなかったのでしょう。

因みに、就職した卒業生ほど、この点を強調します。「ガタガタ言わずに、とりあえず社会出ろよ。そこに解答があるから」と。サルトルのアンガージュマン(社会参加)ではありませんが、自我の確立が必須項目となっている現代社会において、何らかの負担を負うことは、それ自体が社会適応を最も容易にする、最低ラインの行動なのかも知れません。

長くなりましたが、何を言いたいかと言うと、

「とは言っても、ワイのお休み、もう少し増えないかなあ……」

ってことです、ハイ。

全ての試験日程が終了しました!

 発表も終わり、何とか一通りの結果が出揃いました。受験生の皆さん、お疲れ様でした。結果的に、今年は国立大後期日程を受ける人はいませんでしたので、これにて無事全て終了です。

 全体を概観すると、今年は例年と比較して学力水準は高めだったのですが、結果は全体的に渋いものになっており、普段だったらかなり余裕を持って通りそうなところが、実際にはダメだったというケースが多かったです。私大の合格枠を縮小するという話が本格化しているようですので、その影響もあったのでしょうか。

 進路先は医学(医学科)・薬学・医学(保健)・農学・工学・経済学・商学と、大体いつも通りの流れで、医学部も合格大学で言えば五大学ほど受かっているのですが、受験が全体的にシビアになっている気もします。来年はこの反省を活かしていきたいと思います。

 既に引っ越し先を探している卒業生もいますし、「暇な時間使って教習所に行ってきますわ」という子もいますし、卒業生から「飯奢れや!」圧力まで来ています(笑)。ようやく追い出し会も実施出来ますし、試験の疲れも取れてきた頃でしょう。悲喜交々ではありますが、新しい気持ちで再スタートすることに致しましょう。

追伸

 今年度は新規参加の方の数が多いため、面談の実施がずれ込みがちでしたが、ようやく少し正常化しました。まだ体験授業の都合はありますが、ある程度余裕も出て来ましたので、新規参加を希望していたものの、日程の都合で見合わせになっていた方は、改めてご連絡下さい。

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