不登校・引きこもりからの大学進学塾

卒業生と語る陰影礼賛

 私と細君、そして私の母親とで持つ共通の話題が、「インテリア考」。素人判断ながら、「より好ましい生活空間を演出するための方法論を、あれやこれや話し合いながら楽しむこと」です。お酒の席にぴったりの、他愛のない平和なテーマです。

 同好の士は、ある程度のレベルまで進むと、最後には似たような思考になるようで、「素材軟性度の高い室内空間に、硬性度の高いエクステリア用設備を置くと映える」(要は、和室の一角に庭用の石灯籠を置いたり、室内壁を室外用の壁面材で施工したりする)等が、それに該当します。コンセンサスの得られた仲での考察は過激になるもので、終いには、「室内とは? 室外とは?」という枠組みの話にまで飛躍します。

 改めて最近の討論テーマを思い返すと、「陰影」が度々登場している気がします。先日などは、細君お薦めのモーニングを出す古民家カフェで室内の照明を評価しながら、時間の過ぎるのを忘れて、ただ延々と「光」に関して二人で考察したものですが、それだけ、陰影の持つ妙味には、人を虜にする何かがあるようです。

 陰影の面白いところは、光との関係性でいかようにも変化する点にあり、その演出のみを主眼に設計を試みることもあります。直線的な光よりは、曲線的な光の方が陰影のグラデーションを楽しめますし、そのためにはLED電球よりも、オイルランタンや蝋燭が好ましいでしょう。色温度をある程度下げた方が空間に落ち着きが出ますが、下げ過ぎると、空間そのものが光の色に支配されてしまいます。個人的には、2000K~2400Kを上手く使い分けるようにしています。

壁面の凹凸は微細な陰影を生み、ランタンの炎と同調して空間を動かす

 利便性を重視するなら、光源は電力由来であるべきです。しかし、揺らめく炎の生み出す陰影が、命を得たかのように穏やかに躍動する様を見てしまうと、多少の利便性は放棄してでも、ふいに生まれた生命の萌芽に、ついつい手が伸び……。美しさと利便性が相反するのは、一つの宿命と思って諦めるのも一興かも知れません。

 そろそろゴールデンウィークですが、数年前の卒業生グループが、就職祝いも兼ねてCARPEの合宿所に集まるとのこと。成人し、お酒が楽しめるメンバーも増え、新しい門出を祝うには、丁度良い環境も揃っています。

 まだまだ陰影を楽しめる年齢でもないかも知れませんが、未来の同好の士を生み出すべく、今から私も工夫しなくてはなりません。

引きこもりの就職状況について

引きこもり当事者の就職状況に関する寸感です。

 昔から、CARPEには変なところに協力者がいて、妙なところで面白い情報が得られたりするのですが、今回の話は、脱ヒキ後(部屋から出るレベル)の就職状況について。情報が届いたばかりなのでまだ精査は出来ていないものの、ザッと見たところ分かるのは以下の事実。

1:就職経験のある引きこもり(30歳以上)は、ある程度期間が空いても、大筋は再就職出来ている。

2:一方、就職経験の無い引きこもりは、その後も就職しないことが多い。(親の談によれば、「出来ない」ではなく、当人達が就職しようとしない。)

3:完全な引きこもりから広義の引きこもり(ここではNEET状態としておく)になるのは簡単だが、その次(就職)のラインで足踏みが続く。

4:広義の引きこもり状態に進んでも、就職しない場合は、再び完全な引きこもりに戻る傾向がある。(所謂「ヒキ戻り」)

5:よって、引きこもりの抜本的解決における現段階での最重要課題は「就職問題」である。

 事実関係としては至って普通のことで、想定通りと言えば想定通りです。就労経験があり現場の実情が見えていれば、復帰するにしても状況を把握しやすくハードルも下がりますが、実情の見えない者は、無用な恐怖感で萎縮しがちですから。

 卑近な例ですが、CARPEでも、就職まで至って経済的に自立し、一人暮らしをしていながら再度引きこもるような例は見たことがありません。個人的には、脱ヒキ完了の指標は、「(経済的自立の伴う)就職」&「一人暮らし」で、この両方が揃っていて初めて、「引きこもり状態から抜けた」と言えるような気がします。

 具体的な数字は、データをまとめた上での再掲載になりますが、指標の一つとしては有効かと思います。

子の自立は「親の夢」であり、「子の義務」である

自立を蔑ろにすると、子はいつまでも引きこもります。

 ふと改めてカレンダーを見ると、もう2022年。うちの「子」も、今年を終えれば、とうとう自立へ向かって動き出します。最初はどうなることかと思いましたが、過ぎ去ってみれば速いもの。生活環境はバラバラですが、経済基盤はしっかりしているので、その点は安心。後は、変な犯罪に巻き込まれなければ十分です。

 私の個人的な性格もあってか、不登校・引きこもり関係無く、親御さん方と話す機会が多いのですが、大体どの家庭でも共通しているのが、「別に大金持ちにならなくても良いし、多少の失敗はしても構わないから、人様に迷惑をかけず、自分のことは自分で出来る人間になって欲しい」という希望。普通の良識的な親御さんなら、大体どの家庭でも意見は同じで、私も全く同意見です。

 私は、自立とはつまるところ「誠意」だと思っています。皆が皆、それぞれの人生をそれぞれで楽しみたい。しかし、誰かから依存されている状況では、それも困難です。従って、相手のことを尊重するなら、自分の世話は自分で行い、他者には迷惑をかけない。何らかのトラブルで助力を頼むのは良いにしても、あくまで一時的なものに留める。これこそ、自由主義が普遍化した現代における、他者への最高の配慮であり、優しさです。その結果、相互共助によってセーフティネットは維持しながらも、お互いを尊重した安定的生活が生まれるわけですから、これほど素晴らしいこともありません。

 無論、これは親子であっても同じことです。10代なら、親へ依存しないと生活出来ない部分もあるでしょう。20代でも、高等教育を志向するなら、それもまた許されて然るべき時代です。しかし、それ以上の依存は、ただの不誠実。どのような理由があろうと、期日が来たら、親元から離れ、自分の足で立ってこそ、精神的にも経済的に自立した、一人前の人間と言えます。

 CARPE・FIDEMでは、自立を最も大切な目標とし、そのために必要な活動を支援と位置づけていますが、今後もこの姿勢は変わることは無いでしょう。

 親も子も、互いの人格を尊重して、自身の自立を大切にして欲しいと思います。

不登校・引きこもりの支援目標で大切なのは、自立と安寧

 不登校・引きこもり関係の仕事に関与して、かれこれ20年近く。40を手前にして、ようやく手にした小さな小休止で一息入れてみると、支援において何が大切だったのかが、自ずと見えてきます。

 何はともあれ大切なのは、当事者の「自立」。少なくとも、自分一人の生活は維持出来る程度の経済力を有し、外部からの干渉を拒否出来ること。

 職業柄、私は「自立」という概念の無い人々を散々見てきました。いつ打ち切られるか分からない紐付き金銭援助にビクビクしながら、他人の顔色を伺って生きる当事者の姿は、何とも惨めなものです。

 惨めな存在程、執拗に人権を説きたがりますが、それは自立意識の乏しい彼らの人権が、常時脅かされている現実の裏返しでもあります。

 己が信念、とまでは言いませんが、自我の領域を確定し、一主体として外界に働きかけるには、経済的自立が必須。当事者本人の気持ちを大切にするなら、何よりも重要なのが経済的自立です。

 そしてもう一つは、「安寧」。安寧には、無論当事者の安寧もありますが、最優先にすべきは、家族の安寧です。

 一般的に、引きこもりを抱える家庭は暗いものです。表面的には明るい家庭があったにしても、自立しない引きこもり当事者を抱え、先行きの見えない状況が続く中、その心中まで安寧が維持されているとは到底考えられません。押し黙って本音を問えば、不安の一言二言がほとばしり出るものです。

 私が支援の核として最優先にしているのが、家族の安寧です。そして、家族の安寧とは、家族が引きこもり当事者の世話から解放され、家庭の構成員全員が、自分達の人生を前向きに生きていけることで、初めて達成されます。

 最終的な達成までには時間もかかるため、安寧は段階的にしか生み出せませんし、通常は一進一退を繰り返すのが一般的です。しかし、未来への見通し如何の差だけでも、世話役の開放感は全く異なります。

 引きこもり当事者の自立が未達の状態ならば、その安寧も仮初めであり、ある意味誤魔化しに過ぎません。しかし、その誤魔化しの中にこそ、私の培ってきた経験が生きるものと信じておりますし、誤魔化しがいつか本当の意味での安寧に繋がることを深く理解しています。仮初めの幻想がいつか現実を伴って具体化したとき、家族の幸福はいかばかりのものとなるか、容易に推察がつくでしょう。

 最近、卒業生の一人が就職し、そして結婚しました。当人達はその気なので、案外すぐ子宝に恵まれるかも知れません。CARPEを卒業し、何年も経た子達から届く近況報告は、私としても大変嬉しいものです。

 「普通」で良いのです。時代時代の流れに合わせ、その中で広く認知される「普通」を目標に、日々無理なく成長を続ける。普通の人々が普通に行う日々の営みに自身の活動を乗せることこそ、全くもって、無理の無い幸せではないでしょうか。

 昨日は在籍生の子と一緒に、ワイン片手に、彼の薦める古いゲームのBGM鑑賞会を行いました。山梨のワインセラーの試飲室も、最近は上手く機能しています。

 皆が自立し、安寧の中で飲む酒は良いものです。これからも、この平穏な日々が続くことを祈っています。

不登校問題によくある「学校に行かなくて良い」は本当か?

 

 コロナの影響はあるにしても、また最近の不登校新聞の「学校なんて行かなくて良い」ブームは酷いなあ・・・・・・。まあ、数年前は芸能人もこの流れに乗って、メセナ活動よろしく、せっせと「学校なんて行かなくて良い!」とかやってましたので、今年の方が多少マシですが、流石に危険性に気づいたのでしょうかね? 今年は大人しい様子。

 自信持って言えますが、この「学校なんていかなくて良い」ブームのツケ、確実に10~20年後に回ってきますよ。現場見れば分かりますが、現在の不登校って、特に理由のないマイルド不登校が主流で、いじめ云々の話は案外多くない。で、マイルド不登校群が何してるかって言うと、大体がゲームなんですよ。スマホいじってるか、パソコンに向かってるかどちらか。別に、何か理由があって学校行かないのではない。「面倒くさいだけ」という群が実は一番多い。このような状況に、「学校なんていかなくて良い」が重なればどうなるか、誰の目にも明白じゃないですか。

 別に不登校でも良いのですが、それは「出口戦略がきちんとしていれば」の話。実際、出口戦略が手堅い子は、不登校後の進路先も高く、不登校という戦略が功を奏している場合も珍しくありません。医学部行くのもいれば、東大だ早慶だで、そりゃ卒後の状況も良いですし、生活水準も高いでしょうよ。

 ただ、そんなのは不登校でも上澄みの上位群だけ。「何となく学校ダルイから行かなくて良いか」の中~下位群は、学校で提供される最低限の教育する享受しないただの「無能」に成り下がるわけですから、社会参画時の状況は地獄でしかありません。

 当然の話ですが、社会からの能力要請ってものはきちんと存在していて、一定以下の能力値の人間は要らないのが実情。だからこそ、近代以降の先進各国は公教育に力を入れているのですし、個々人が少しでも有能になれば、全体の幸福にも直結するのですから、こんなに良いこともない。

 一方、日本も福祉国家を自称する以上、能力養成に積極的でない無能群に「なら死ねば」とは言えず、仕方なく税金から福祉の費用を捻出せざる得ないわけですが、この総額は無能群の増加に比例するするため、無能群の増加は、懸命に社会を支えている現役世代にとって厄介事でしかない。

 にも関わらず、無責任に無能群を増やす「学校行かなくて良い」運動を続けているのですから、いつか圧迫を受けた現役世代からの怒りが爆発するのは必至なわけで、崖に向かってひた走るチキンレース以外の何ものでもありません。これは、不登校・引きこもり業界に昔から蔓延る「弱者は常に善であり、優しい声かけは全て正しい」という、頭お花畑の垂れ流し福祉発想が生み出した宿痾のようなものでしょう。

 もっとも、運営側の不登校新聞は、フリースクールの下部組織のようなものですから、不登校の増加は、フリースクールの経営にプラスに機能するわけで、せっせと学校を否定し、我田引水をかますのは、経営戦略的には悪くないです。「学校と違って、ボクは君たちのことを考えてるよ?」のような面をしておけば、体面上もGOODですしね。

 が、その結果が出るのは、不登校を推奨され、口車に乗せられた後、社会復帰するとき。散々この局面を見させられてきた身としては、出来もしない案件を無思慮に取ってくる営業にキレる技術部門そのもの。入口ばかり語ってないで、出口を語って欲しいものですな。

 口汚く色々書きましたが、まあ私もそれ位、無責任な扇動に怒ってるというわけです。子供の不登校・引きこもりがギリギリラインにいる親御さんや、実際に不登校・引きこもり寸前の子達は、上記程度のことは知っておいて下さいな。ハーメルンではないのですから、金の絡んだ甘言に乗せられて、川に飛び込むネズミにはなりたくないでしょう? 

 現実を良く見て下さい。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。

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