不登校・引きこもりからの大学進学塾

「妄想+傲岸不遜=継続的失敗」

深代惇郎さんが天声人語の執筆をされていた頃はまだ面白かったのですが、昭和後期から平成入ってからの朝日新聞は、内容がつまらなくなっただけでなく、悪質な作話やファンタジーばかり書く上に、人に迷惑かけようが過ちを犯そうが全くと言って良いほど謝罪しないため、すっかり一般読者からの指示を失ってしまっています。

私も、中学生時代に読んだ深代さんの天声人語をきっかけにして、その後の天声人語も継続的に読んでいたことがあったのですが、読み進むにつれ内容の劣化も同時に進み、最終的にはあまりの品質の悪さに読むに耐えなくなって、結局全て破棄したことがありました。深代さんの件で期待が大きかっただけに、当時の裏切られた感じは今でもよく覚えています。アレ、一体誰が書いてた(る)んですかね?

子供だったせいもあり、この品質の悪さの根源はその後もしばらく理解出来なかったのですが、今から振り返って見ると、相手を騙すつもり満々でファンタジーを書こうとする姿勢の薄汚さが見え隠れしていたのかも知れません。

以前、同期との飲み会で、

「朝日新聞では、ファンタジー作家が一番出世するんだぜ?」

「マジか! なら、役員も社長も会長もラノベ作家が独占だな!」

なんてギャグを言っていたのがいて、皆で大笑いしたことがありましたが、若年層を中心に同様の意識を持つ人は非常に多いようで、朝日新聞が現行40代以下の支持を取り付けることは最早不可能でしょう。少し前には、新卒東大生の朝日新聞就職者数がゼロなんて話もありましたが、沈む船を避けるのは当然のことだと思います。

何事も「間違ったら反省し、すぐに原点に戻れ」が鉄則で、修辞で表層を取り繕っただけの壁新聞から立ち上がり、再度品質を改善するには、経営側が泥水啜ってでもジャーナリズムの本来の仕事である「事実の究明」を出発的に出直すしかありません。何を書いても、

「どうせ、朝日が書いたんだから嘘だろ」

なんて言われる現状は、かなり意識して変えないとどうにもならないと思います。

 

と、朝日新聞の悪口ばかり書いているようですが、中には誠意のある記者の方も必ずいらっしゃるはずで、私個人としては、今回の記事が朝日お得意の「作話」でないことを祈りたいところです。

「話しかける」少しずつ…引きこもり20年の女性が接客

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180722-00000005-asahi-soci

https://www.asahi.com/articles/ASL7N5VV0L7NPLZB01Y.html

本来、支援というのは記事のように、つまり、

「当事者は自立の意志を持ち、その自立に向けて周囲が手助けする」

べきであって、この発想を除外して支援などあり得ないと思います。

以前から話していますが、国や自治体に圧力をかけて金を引き出そうとしたり、自分達は何も変えようとせず、社会にばかり変化を強いる胡散臭い親の会が引きこもり業界には一定数いて、そのような依存癖のある人達が発言権を持つようになったために、現行の長期高齢引きこもりは、ほぼ完全に改善のタイミングを失いました。朝日新聞同様自業自得であり、「自立」を軽んじた愚かしさの結果なのですが、今後は、

「いかに長期高齢引きこもりが、社会に迷惑をかけないようにするか」

という後処理問題がメインとなるでしょう。結局は、自分達の失敗のツケを、自分達で払わされるときが来ただけのことですが、しかしそれでも尚、この記事のような動きが少しでも出てくるのは素晴らしいことだと思います。

 

現行の長期高齢引きこもりは、兎に角アルバイトで自分の生活資金を確保するだけでも100点満点です。無理矢理ハードルを上げる必要もありません。親亡き後も、世間様に迷惑をかけず、自分のことは自分でやる。これだけで十分です。

今思えば、「依存癖のある親の会」も「朝日新聞」も、どちらも自分達の短所に目を瞑り、自分達の論法だけを掲げて社会の状況を見ようとせず、結果社会全体から見放されたという点では、全く同一の行動を取っていると言えます。自分達だけが正しく、無謬でいられるなどあり得ません。間違いの可能性はいつでもありますが、間違ったら間違ったで、

「すみません。ごめんなさい。次は間違えないようにします。ご協力お願いします」

の一言がきちんと言えれば、普通は大体が許してくれるものです。それをせずにつけ上がり驕り高ぶり、不遜なことをするから、そっぽを向かれる。物事が長期間改善しないのは、ほぼ100%「反省しない愚かしさ」が原因ですが、流石にそろそろ理解しましょうよ、どちらもいい歳なんですから。

「自分の人生(記事)には自分で責任を持て」

「自分の食い扶持(発行部数)位、社会に頼らず(押し紙に頼らず)自分で稼げ」

この二点を基盤に、依存体質の親の会が無くなり、朝日新聞が自省し、自立優先の意識が芽生えてくれることを期待するばかりです。より良い社会が各人の謙虚な自省から生まれるのは、個人法人の別なく、誰に対しても言えることです。

引きこもりのウソ・ホントその1「引きこもりは本当に心優しいのか?」

たまたま寄ったバーで知り合った人に、

「引きこもりの人達って優しい人多いって聞きますけど、本当ですか?」

という質問をされたので、ついでにこちらにも書いておきます。

結論から言えば、ほぼ100%ウソです。引きこもり心優しい説は昔からありますが、実際は普通の人達と何ら変わりありません。引っ込み思案な人が多く控えめなため、上っ面だけ見れば「優しく」見えることもありますが、これは観察者側が実態を把握しきれていないだけのことです。

しかし、「引きこもり心優しい」説は、発生するだけの事情が昔からありました。

A:「社会の落伍者」という立ち位置故、立ち直らせるためにも、周囲(主に支援者)は彼等を好意的に評価せざる得なかった。

B:しかし、無能力者の多い引きこもりを好意的に評価するには、「優しい」という抽象的で、誰にでも当てはまるような曖昧な表現しか他に手段がなかった。

C:また、精神的自立が遅れ、自己定義の乏しい引きこもり当事者も、「優しい存在」と定義付けされた方が楽だった。

D:何より、周囲に優しくしておけば自分が叩かれる可能性も下がるので、自己防衛を図りたがる当事者としても「叩かれないようにするため」に、優しい風を装った。

E:親の側でも、「うちの子は引きこもっているけど、本当は優しい子なんです!」とか何とか言っておけば、社会的体裁を最低限繕うことが出来た。

以上のような事情により、「引きこもり心優しい」説は、親・本人・支援側の全てにおいて都合の良い定義(落とし所)だったため、特に引きこもり本人がどうであろうとも、「引きこもりは心優しくなくてはいけなくなった」訳です。まあ、半ば強制的にそういうキャラに仕立て上げられたというのが、幾分真実に近いでしょう。

関係者全員がそう言っているのですから、実態なんか出ようがありません。何も知らない人からすれば信じるしかないわけで、事情など知る由もありません。

で、

「そうか~。引きこもりは優しいのか~。優しいから汚い社会が辛いんだね~。大変だな~」

とか思ってしまう訳です。これが悲劇の始まりです。どんな悲劇かは、最早言うまでもないでしょう。

個人的な経験則ですが、引きこもりで「優しい僕」「優しい私」のような自己定義に塗れている人は、大体が何も出来ない無能力者で、かつ長期化する傾向にあります。無能力故、まっとうな自己定義が出来ず、「優しい自分」という幻想にすがりたくなるのでしょう。

無論、若いうちは過ちもあるものですから、10代前後ならそれでも良いのですが、30歳超えて、40歳50歳にもなってもまだ「優しい僕」「優しい私」なんて言ってるのは、呆れる通り越して、最早ただ気持ち悪いだけです。

上記のような事情が分かっていれば、不利益にしかならない「引きこもり心優しい」説なんて主張するはずもなく、事情が読めるだけの頭のある人達は、まず「引きこもり優しい」論には与しません。逆に、主張したがる人達は、親にせよ本人にせよ支援者にせよ、最初から問題を解決する能力が無い、或いは解決するつもりの無い人達なので、グダグダと現状維持を続けることしか出来ません。ただ、どうにもその矛盾に気付かない残念な人達もいるようで、単純なはずの引きこもり問題を、過剰に困難なものにしています。

「自分達のような優しい人間が報われないなんて、社会がおかしいに違いない。社会が変わるべきだ!」

「弱者に厳しい汚い社会で上手くやっているなんて、成功者は悪質な人間に違いない!」

「汚くなる位なら、例え社会に出られなくても、綺麗なままの方が良い」

かくして、自称「弱者と社会正義を守る、優しい引きこもり」の歪んだメンタリティが形成され、それは動かざること岩の如し、となるわけでございます。

批判されるのであまり言いたくないですが、引きこもりの長期化は、半分以上が人災です。先人の話を聞く限り、もうこれは二十年以上続いているようなのですが、災害を起こす人達はその間何も変わっていません。その上厄介なのが、その人災を起している本人達(親・当事者・支援者)の三者全員が自分達が原因だと気付いてない場合で、更にタチが悪くなると、自分達の正当性を主張したいがために、その人災をまだ間に合う若年引きこもり家庭にまで伝播させたりします。ここまで来ると、最早善意を装った犯罪に近いと言っても過言ではありません。

「引きこもり心優しい」論の背後には、このような三者三様の利権にも似た、ズブズブでドロドロの事情があります。無意識のうちに進む「心理的談合」とも言え、長期高齢引きこもり周辺に渦巻く屈折した集団病理です。全く意味の無い行為ですので、まだ間に合う人は、典型的な失敗例の一つとして意識しておきましょう。

仮に心優しい引きこもりがいたとしても、その比率は社会一般のそれと何も変わりありません。引きこもりだけが特段優しいなんて話は、限りなくウソに近いのです。

 

結論:「引きこもり心優しい」論は、そうなってくれると都合の良い人達が適当に作り上げた作話である。

男女比率が逆転・・・・・・だと?

まさか、と言うか何と言うか、ついに一部のクラスで男女比率が完全に逆転してしまいました。これまで、CARPE・FIDEMは男の子が多数派で、女の子が少数派の「男子校」的アバウトな組織だったのですが、今年度はどうも雲行きが怪しく、新規参加の男女比率はほぼ同数となっています。理由は全くもって不明ですが、何かあったのでしょうか? 総数としては、まだ男の子の方が多いのですが、今後はまた微妙な情勢です。

個人的には、経済的に自立し、強い力を持つ女性が増えることには大賛成なので、自立を最重要課題とするCARPEに賛同する女性が増えるのは大変喜ばしいことなのですが、実際に自分の周辺環境で女子比率が増えるとなると、これは・・・・・・。ただでさえ肩身狭いのに、これ以上肩身が狭くなるのはツライものがありますのう・・・・・・。どの世界でも、女子は強いからなあ・・・・・・。

同世代の友人や、ご近所のお父さん達と話をしていても、

「加齢臭で文句を言われる・・・・・・。好きで加齢してるんじゃないのに」

とか、

「デブ許さない。痩せないと離婚」

とか、

「娘の態度が冷たい。昔はあんなに優しかったのに・・・・・・」

みたいな話がモリモリ入って来て、戦慄さえ覚える今日この頃。男性諸氏はいかがお過ごしでしょうか?

多分、もう既に男性が強い時代ではないのかも知れませんが、弱い立場なら弱い立場なりに、寄せ合いへし合い生きて参りましょう。私も、「気がついたら頭の良いやり手の女性経営者に、代表の地位を追われていた」なんてことがないよう、日々の義務に身を引き締めたいと思います。

7月22日(日)まで、面談日時に制限が掛かります。

事前にアナウンスしていた通りなのですが、今年度の参加者数は例年よりも多く、クラスによっては既に受け入れがほぼ不可能な状態になっています。また、模擬試験実施に伴い、授業が段階的に試験準備入りするのに加え、新規参加の面談が重なっている関係で、対外交渉に充てる時間が全体的に不足気味です。

以上のような事情により、7月22日までの面談時間に制限が発生しており、面談可能日時が数パターンしかない可能性があります。お手数ですが、新規参加希望の方は以上をご確認の上、面談予約は余裕を持ってお申し込み下さいますようお願い申し上げます。

「1ml 1円の法則」と、山梨県産ワインの未来

不登校や引きこもりとは全く関係なかったのですが、以前掲載した、

国の豊かさとワイン考

が、何故か意外と好評だったので、無関係な話ですが、続きをば。因みに、知り合い向けに書いている部分もありますので、悪しからず。

 

まだ私が大学生のときの話ですが、ワインの買い方云々について、よく方々で議論をしておりました。

「安さこそ至高。高級ワインなんざクソ食らえ!」コスパ教原理主義者(極左系呑兵衛)

「テロワールを重んじることこそ、ワインの真の歴史を云々・・・・・・」中世から来た修道士

「別に、美味けりゃ何でも良いんじゃない?」ワインと日本酒何が違うの?派

等々、様々な意見が様々な年齢層から出て、愉しくワイワイやっていたのですが、一つの傾向に、あるとき気がつきました。

「飲み慣れている人ほど、低価格高品質なものを求め、初心者等、飲み慣れていない人ほど、高価なワインの蘊蓄を好む傾向にある」

これは丁度、ワイン文化が定着しているヨーロッパのレストランでは単価が安く(小売価格の1.2~1.5倍程度?)、定着が遅れた日本のような国のレストランほど単価が高い(小売価格の2倍以上)のと同じことで、生活に密着するほど消費頻度が増えるため、単価も下がる傾向にあり、「ハレの日のお祝い!」にしか抜栓しない場合等は、途方も無いご祝儀価格になるのと軌を一にしています。

ご多分に漏れず、私も20歳前後のときは蘊蓄優先の修道士で、何か新しい知識を手にしては同類の友人達と議論し、バルク購入もどきの買い方をする両親に向かって、偉そうにダメ出しをしたものです。

が、あるとき事実に思い至ります。

「3,000円/本を超えると、万単位のワインと同じ品質のものが普通に出て来ないか?」

つまり、ワインの品質と価格は実に綺麗な対数関数の関係になっていて、500円と1,000円の品質差は大きいものの、10,000円と100,000円の品質差はほとんどない。と言うか、分からない。分からない以上に、品種や濃淡等の好みや保存状態の問題の方が変数として大きい。なら、そんなに高い金額出す必要ないのでは、と。

確かに、エシェゾーとロマネ・コンティは違うでしょうし、歴史云々を含めてテーブルを賑わせられるかどうかは、より価格が反映されるポイントかも知れません。ただ、「それにどこまで支払うのか」という観点になると、我々庶民には、お財布を含めた諸々の現実的お話が首をもたげるわけで。特に、デイリーユースのものは。

 

そこから10年。個人的に行き着いた、低価格帯ワインに関する一つの結論が、

「テーブルワイン1ml 1円の法則」

つまり、ボトル1本750円が、当たり外れのバランスをギリギリ維持出来る基準線、言い換えれば、外れても「まあいいか」で済ませられる一方、当たれば当たったで、「ラッキー! また買おう!」と思える、損得勘定的心理境界線であるということ。

この金額を下回ると、かなり上手く狙わないと外れ率が上がり(特に白はしょーもないものが増える。モノによっては、微発泡だったりする。)、気落ちする確率が大きくなる。安い方が望ましいことは当然だが、対数関数の原点付近にある、奈落の底へ落ち込んでいくような急激な下げ幅は甘受し難い。そのギリギリのバランスが、「1ml 1円」

他にも、

「ノン・ヴィンテージよりは、ヴィンテージで。ただし若い年度に限る」

「極力ニューワールド系で。生産単価の高い旧世界は、一応疑う」

の条件が揃えば、味の方向性は単純になってしまいますが、しょっぱいワインを引く率は低くなるような気がします。

とは言っても、これは一杯100円のサイゼリヤのグラスワインに対し、

「価格を考慮に入れると、非常に良いバランス。企業努力の成果は、自分も見習うべし」

なんて判断するような私の好みですので、味覚に優れた当代随一の人達からしたら謎理論でしょうが、標準的な凡人のレベルからすると、案外間違ってもいないんじゃないかな?

 

以上のような論理により、私としては、「テーブルワイン1ml 1円の法則」を強く主張したいわけなのですが、ここで悩むのが国産ワインの存在。

CARPEは、東京都の千代田区が本拠ですが、都内だけだと飽きるので、活動拠点の一つとして山梨県にも比較的大きな合宿所を所有しており、その関係で、山梨県のワインには触れる機会も多く、卒業生が集まってはアレコレ論評することがあります。

ただ、地元民の一人として、コレについては一つ言いたいのでございます。

「地元産なのに、山梨県のワインは高い!」

確かに、時代の方向性として、高級化路線は必然だと思いますし、先進国で生産する以上、人件費の観点から値下げが難しいのは分かるのですが、品質に対する費用対効果が少々悪すぎやしませんかね? マスコミ発の評価を見ていると、品質的にはボトムアップの傾向にあるようで、世界的に評価されつつあるのも喜ばしいことではあるのですが、価格設定が少々微妙な気がします。平均的な売り場の様子を見る限り、中心価格帯は2,000~3,000円/本。1,000円/本のものもあるにはありますが、品種不明なものも多い上、どこか混ぜ物っぽい。5,000円/本以上も特に珍しくなく、フランスやイタリア産だとしても、かなり良いものが揃えられるゾーンです。

国産高級セダンと同じで、最初から輸出前提・海外消費前提なら、まあそれもありかと思うのですが、しかし地元民の口からは徐々に離れつつあるのではないのか? とまあ、こう思うわけです。県内周囲で意見を聞いても、日常的に飲むというよりは、基本はお祝い用や贈答品用で消費されている感じがしますし。

このような意見に対して、生産者側からの対案と言えるかどうかは微妙ですが、「百姓の葡萄酒」のような、一升瓶サイズのものも市場には出回っていて、大筋「テーブルワイン1ml 1円の法則」の基準を満たしています。味はバラツキますが、上手く選べば、まあまあ悪くない程のもの「も」あります。

ただ、原材料を見れば分かりますが、この種のワインで主に使われているのは山梨のブドウではなく、恐らくバルク輸入された濃縮ブドウジュースで、所謂「日本産(ブドウから全て日本で生産)」ではなく「国産(ブドウは海外産で、国内で醸造しましたという意味)」。比較的国産ブドウを使っていると思しき「百姓の葡萄酒」シリーズでも、部分的に入っています。

その結果か否かは不明ですが、時期によって味が全然違うこともあります。昨年度の「百姓の葡萄酒 赤」はそこそこ旨かったのですが、今年度は一段階落ちを感じます。(少し寝かせたら、多少改善しましたが。)逆に、白は結構美味しい部類にありました。

個人的には、山梨県がワイン大国(大県?)になるためには、高級化路線による国際戦略も行う一方で、日本酒と同様、地元でリーズナブルなテーブルワインを県産ブドウで生産出来るようにすることが大切だと思っています。何も、ものすごく高級なものを安くしろと言っているわけではなく、セカンドワイン、サードワインに落とすようなものを安価にまとめ、ライトでも新酒の旨味で勝負するようなものが、もっと表に出てくれると嬉しいな、と。

いくつかレストランを回り、オーナーさんの意見を聞いてみても、値段と品質のバランスで考えると、

「県内産は、白は上々。赤はまだまだ」

という意見が多く、海外と同質のものを求めるには、軽く倍以上の値段を払わないと釣り合いません。赤に至っては、三倍払ってもニューワールドに押し負けることが度々です。気候や人件費の点から難しいのは十分分かっているのですが、何か一捻り欲しい気もします。

勿論、文句ばかり言っているわけではなく、山梨の赤には赤で、別の楽しみ方があるとも思っています。

以前、弟夫婦が遊びに来て、市内を車で案内したときのこと。

「ちょっとストップ! あそこに小さな店がある!」

と、急遽車から飛び出し、ワイン専門店に入る弟。しばらく待っていると、

「見たまえ、悠輝君! 山梨のピノ・ノワールやで!」

と、意気揚々、生産量のほとんど無いらしい、貴重な1本を選んで来たことがありました。ブルゴーニュのピノ・ノワールは分かりますが、山梨のピノ・・・・・・だと?

早速、ドライトマトにオリーブ、生ハム並べて飲んでみましたが、

「・・・・・・醤油顔やな」

「うん。日本人形のようなピノやな。能面と言うか」

「・・・・・・土だべか?」

「土だべ」

「でも、悪くないよな?」

「Ja」

「・・・・・・領収書ある?」

「見るな!」

なんてやり取りがございました。良いワインではあるんだけどね・・・・・・。

品種が同じでも、植わる場所で表情が変わるのは私にも分かります。ただ、日本のそれは違いが大きい。何というか、まったりまったりなんですな、おじゃる丸みたいに。この辺の違いを味わう意味では、確かに結構面白い部分もあります。

他にも、べーリーAなんかは、山梨に来るまでは知りませんでしたが、やはり特徴の強い品種だと思います。イタリアのマイナー路線を探し求めて、「アリアニコは良かでっしゅ」なんて言ってる面々ですので、この辺は楽しみ所です。

問題はただ一つ。「価格」。コレ大切。

 

改めて読み直してみると、何が言いたいのかわけ分からない文章になりましたが、要は山梨のワイン生産者の方には、アクセスしやすい県産テーブルワインのバリエーションと品質を、もう少しご考慮頂いて・・・・・・と言うことです、ハイ。

とは言え、まずは山梨ブランドが世界に煌めいてこそ、我々下々の者へ施しをするだけの余力が出るものかと思われまする。気長に待ちますので、生産者の方々におきましては、

「急がず焦らず 参ろうか」

の心境で、まったりまったり、おじゃる丸式平安貴族のようなテンポで、評価向上に努めて頂きたく御座候ふ。

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