不登校・引きこもりからの大学進学塾

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夏の修学旅行(?)が終わりました。

例年、CARPE・FIDEMでは、希望者を集めて年に二回ほど泊まりがけで旅行に行きます。(因みに、通常の参加なら基本的な費用は全て無料です。)今年度は一回目が千葉へ二泊三日、二回目が長崎で三泊四日でした。参加者は全部で15名。丁度車二台に収まる範囲で、ほっと一安心です。

初日は夜到着ですが、初回から一室に集まって部屋飲み会を開催し、希望者が勝手に肝試しに行きます。二日目は軍艦島のツアーに参加して、市内観光巡りの後、更に夜は部屋飲み会。最終日はハウステンボスを一日かけて回り、夜は野球盤に人生ゲームと部屋飲み会。何か飲み会ばかり実施していますが、これはこれで大変好評でございました。新規参加の子達は、まだまだ顔なじみが少ないため、これをきっかけにして更に親睦を深めてくれたらと思います。

人「さっきの質問ですけど、逆に少年さんはどうなんですか?」

少「ふふ……ボカァね、何のかんの言っても結婚はすべきだと思うんですよ」

E「おい、どうした急に? 変なものでも食ったか?」

少「子供も持つべきだと思うんですよ」

ウィ「何か急に語り始めたぞ(笑)」

ベ「よ~しお前ら。訓練通りにやれ」

澪「少年君凄い! まだ18歳なのに! …… あ、おつまみ取って」

少「だってそうじゃないですか? 今は良いけど、年とって生活安定しても家族いなかったら、やること何もないじゃないですか? ダメなんですよ、結婚しないと!」

野「まあ、少カス君は大学でも速攻で彼女出来そうですしね」

ス「年下の子に負けた気がします~。あ、生ハムあります?」

ダ「あ、私にはワインを。そっちの……そう、それそれ」

映「良いですね良いですね~」

少「寂しい人生にならないように、事前に準備をしないとダメなんですよ!」

デ「自分はまず彼女からだな~」

富「デリカ君はまだ17だからいいじゃん! これからじゃん!」

ベ「よ~しお前ら。訓練通りにやれ」

合「意味分かんねえよ、少し黙ってろ(笑)」

一般的な学校に所属していても、修学旅行はあると思いますが、それのちょっと大人バージョンと言えるでしょうか。最終日は、貫徹で飲んでいた子達もいましたっけか? 上記の例は間抜けですが、話の内容も中々に高度で、理知的(?)な参加者が集まっていることを嬉しく思った次第です。今後も、恒例行事として続けたいところです。

CARPE・FIDEMの基本方針は、学習面では当然のことながら、物事を深く洞察しつつ、その年齢毎の課題を自分なりに解決出来るような自立性の養成です。

「不登校だから……」

「引きこもりなので……」

等という、さもしい言い訳をしなくても済むよう、個々人が自分の能力を高め、課題に積極的に挑み、一般的な進学ルートを取った子達よりも頭一個抜きん出た存在になることを目標にしていますが、これからの不登校・引きこもり支援は、それ位が普通になるかも知れません。特殊ルートであるが故に、特殊さを上手く活かした速い成長が望めますからね。

1人で出来ることには限りがありますが、周囲の子達から優れた発想を取り入れ、自分の血肉として受け入れることが出来れば、これは大変素晴らしいことです。泊まりがけで何日間も一緒にいると、普段出来ないような話もゆっくり出来ます。相互理解のきっかけとしては、今回も大成功と言えるでしょう。

これからはセンター試験に向けて準備が始まり忙しくなりますが、次回はどこに行きましょうかね? 思案のしどころです。

不登校・引きこもりで大人になった後のこと

「いや、違うんだ。今はもう、そういう状況じゃないんだ」

と言いたい記事が一つ

「明日の学校はムリかも」と迷っている人へ 中学3年生を丸ごと休んで得られた6つの結論」

https://news.yahoo.co.jp/byline/ishiishiko/20180902-00095018/

先に断っておきますが、私はこの筆者の方を毛嫌いしているわけでも、喧嘩を売りたいわけでもなく、ただ実直に、現実的要求の論点がズレ始めていることを語っておきたい訳で、その点はご承知おき下さい。

文章の内容はシンプルで、

○学校行かなくても、通信制高校とか大学とか、選択肢はたくさんあるから大丈夫。

○不登校でも、その後は仕事もあるし、普通の日常が待っているから大丈夫。

○周囲の大人達は、彼等のSOSに気付いて、相談窓口も利用しながら、命の確保を。

です。内容自体に全く嘘はなく、何一つとして否定する要因はありません。ごもっともです。

ただ、ここには決定的に足らない要素があります。記事を読んで、私も、

「ああ、やっぱりまだこの状況で止まっているんだな……」

と言わざる得ない隠れた問題点、即ち、

「結局、不登校経験者は、どのような社会人になっているのか?」

というテーマです。これは十年以上前からあり、未だにまともな解がない、厳密に言えば解はあっても、不登校経験者には都合の悪い解で、誰もが表面に出したがらない話題です。

状況を分かりやすく説明するため、かなり刺激的な話題ですが具体例を上げておきます。ここには特定の支援者を批判する意図があるわけではなく、純粋に不登校経験者の子達(解析能力に長けた子達)が、どのように支援者側を見ているのか、端的に示しているものだとご理解下さい。尚、対話で出てくる子は、今は医学部に在籍しているCARPE・FIDEMの卒業生です。

 

E「そう言えば、前に言ってた、居場所的なところはどうだい?」

卒「ああ、あそこはもう行ってないですよ。二、三回顔出しただけなんで」

E「何でまた? 慣れるまでは通ってればいいじゃない?」

卒「いや、いいっす。何か、いたたまれなくなるんで」

E「??? いたたまれないって?」

卒「いる人達が、ちょっと。自分が文句言えた話じゃないですけど……」

E「良く分からんな」

卒「言い方悪いけど、『この人達、大丈夫なのかな?』って。自分、学校辞めて、母親に言われてアチコチ行ってみたけど、大体どこも優しいんですよ。『大丈夫だよ、とか、心配ないよ』とか」

E「別にそれはええんでね?」

卒「まあ、そうなんですけど。でも、そこの主催者とか、ボランティアしている人とかの経歴とか、今の年齢とか、やってることとか聞くと、何か……」

E「???」

卒「言い方悪いけど、レベル低いんですよ。『大丈夫』って励ましてくれるのは嬉しいんだけど、その『大丈夫』って何? 死ななかったから大丈夫なのか、家から出られてるから大丈夫なのか……。ただ、自分が欲しい『大丈夫』って、そんなレベルじゃないんですよ」

E「ああ、そういうことね」

卒「元不登校の人とかがスタッフでいるんですけど、『仕事してないからボランティアで』とか、30歳過ぎで中卒社会経験無しとか、学歴が最高でもマーチで、しかも就活失敗とか……。自分達の体験談語るのは良いんですけど、それ全然参考にならないし。自分の失敗談聞けば、相手が安心するとでも思ってるんですかね?」

E「そこは君が批判すべき点ではないな。彼等だって、それなりの苦労はあるんだから」

卒「分かってますよ。でも、そんな人達に『大丈夫』とか言われて、Ecoさんは納得しますか? Ecoさんは経済力凄いから何とも思わないかも知れないけど、自分何も無いんですよ? 昔の高校の同期とか、今頃医学部とか東大とか早慶とか行ってて、社会でめっちゃ活躍すること分かってるんですよ。そこを、『大丈夫だよ。心配ないよ』とか言われても、こっちからすれば『あんたらの方が大丈夫じゃないだろ? 人生設計どうなってんの? 自分達が底辺化しつつあるのに、俺達現不登校の世話して悦に浸ってるだけで、自分達の問題二の次にして、大丈夫とか言ってんなよ』とか思う」

E「……」

卒「不登校とか陥ったら、結局どこかで元のルートに戻らないと、底辺でワープア確定じゃないですか? ネットで調べりゃ、そんなのすぐ分かるじゃないですか? 無教育で他より遅れてて、それでもまともな仕事あるなんて、誰が信じるんですか? 不登校じゃなくても、浪人と留年あるだけで就活に響くのに、何甘いこと言ってんの? あんた年収いくら? 社会保障どうなってんの? 厚生年金はあるの? 退職金は?」

E「気持ちは分かるが、外では言うなよ、そういうこと。僕がいつか言っとくから」

卒「それ位の分別はあります。あそこも『ありがとうございました』って言って出てきました。顔には出てたかも知れませんけど。自分、顔に出やすいんで」

E「君は賢いから、先が見えるんだろうさ。だが、人には言うな。分かっている人達だけで話せば良い」

 

内容が内容なので憚られますが、私は彼の意見は真っ当なものだと思っています。記事にも、

>2000円もするパフェが食べられたり

とありますが、今彼等が欲しているのは、そんな定性的な些末な話ではなく、不登校でどの程度の遅延があると、大体どの程度の学歴と就職状況で、どの程度の所得と社会保障が得られて、という定量化された現実です。完璧でなくても構いませんので、目安だけでも。せめて「30代で2,000万円台の家を建てました」なら、社会情勢を考えても、まだ安心を呼ぶでしょう。しかし、齢35になる不登校先輩が、後輩に語る「安心」の根底で「パフェ」を持ってくるようでは、逆に疑惑の温床になります。わざわざ記事にしてまで語る内容がその程度では、それ以上の誇れるものが無いかのような印象を受けてしまいます。不登校の子達は10代で子供のカテゴリに入るかも知れませんが、パフェ云々で通じる年ではありません。彼らは馬鹿でも阿呆でもなく、かなりシビアに社会を見ています。

また、

> さらに高校からは通信制高校というものがあり、月に1度から2度の登校で卒業できる学校もあります。試験だけを受けて「高校卒業」と同程度の資格が得られる制度もあります。大学も通信制大学が全国で43校もあり、いわゆるテスト競争をする「大学受験」はナシで入学できます。

とありますが、実際の実績を見れば分かる通り、通信制高校や通信制大学の卒後の就職先は、決して褒められたものではありません。第一、ロクにテストもせずに入れる教育機関に、どの程度の人間が集まるのか、容易に推察がつくではありませんか? 就職時に、採用側はどう判断するのでしょうか? 早慶や明治・立教・青山のような大学付属校ですら、就職時には付属上がりかどうかが人事側で話題になるのに、資格が同等だから「試験無しでラッキー」等という判断が通用するのでしょうか?

「道があるから大丈夫」と言いっ放しにするのではなく、本当にその道が大丈夫なのかどうか検証し、現実に先に繋がる道を提示するのが先人の義務でしょう。それこそ、万葉の昔から「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」の基本中の基本が、洋の東西を問わず語られている中で、流石にこれは浅慮に映ります。CARPE・FIDEMには、小学校から学校へ通っておらず、将来性を考えて医学部へ進学した子もいましたが、この子も、高校生の年齢から「社会情勢に対する考察の甘さは、結局自身の死に繋がる」と判断して学習を続けていました。見ている子は、先人達の無知さえ正確に見抜いているのです。

しかし、その辺が今の支援者側には見えていない。逆に、具体性のない立ち位置から出てくる安易な「大丈夫」が故に、かえって疑惑を生む結果になっています。

はっきり分かっているのは、今の日本で明確に階層化が進んでいる点です。昔は何となく適当でも大丈夫だった(ように見えた)かも知れませんが、今は大筋10~20代までの経歴で30代以降の流れはほぼ決まります。変えたくても、変えるルートもありませんし、変えるだけの能力を養成することが難しい。それ故、若年期の一年は大変な価値があり、頭の働く子はその点に危機感を抱いている。逆に、頭の働かない子は、後からその事実に気付くものの、気付いたときには手遅れである。

昔の不登校経験者が今は支援する側になっていて、彼等は牧歌的に「大丈夫」と優しく語りかけるのでしょう。しかし、そんな行為も段階的に意味を持たなくなってきています。本当に大丈夫だと言うなら、自分達の経済状況も含め体系化されたデータを開示する位の方が、より説得力があります。しかし、誰もそれをきちんと出さない。出したにしても、どうにも不安定さが残る立ち位置ばかり。何故なのか?

結局、不登校・引きこもりは、社会参画に不利にしか働かないということです。有利にするには、手段は二つだけ。

○何らかの教育ルートに極力早く戻る。

○何らかの分野で、自分の特技を活かして事業を始める

この程度です。しかし、後者は極めてハードルが高い。5年維持が25%、10年維持では10%しか残りません。しかも、私が見てきた不登校関係者の自営展開は、国や自治体からの補助金頼みのものが多く(NPO主体等)、気付いたら無くなっているケースも何度も見ています。NEET株式会社なんて洒落もあり、早々に潰れていましたが、不登校・引きこもりの依存体質が、ここでも問題となっていました。

元々自営業展開は成功率が低いため、一般論的には前者しか道がない。それ以外のルートを取れば、余程の幸運が無い限り、常時人並み以下の不安定さを抱えて生きることになる。詰るところ、結局は元の学校でなかったにしても、環境を変えて何らかの教育ルートに戻った方が楽ということです。それも、遅延の分だけ一段階上に上げて。

以前にも話しましたが、自殺防止の意味でのワンストップ戦略として、優しい「大丈夫」の価値は認めます。しかし、それにしては、「大丈夫」と語りかける方の側が本当に大丈夫なのかどうか疑わしく、場合によっては、「不登校先輩」そのものの生き方の善し悪しが、後輩側から問われているとも言えます。

私個人としては、「大丈夫」という言葉を語る側は、それなりの覚悟を持って語るべきだと思っています。でないと、その言葉の意味も価値も薄れ、未来のどこかで泥沼化します。「全然大丈夫じゃなかったじゃねえか!」と後輩達に言われたら、不登校先輩達は、一体何と返すつもりなのでしょうか?

少なくとも、以前私が調べた限りでは、不登校から通信制高校等を経由して社会に出た子達(つまりは、不登校の中でも中位層の群)の大半は、「まとも」とはほど遠い職場環境で仕事をしています。良くて零細中小企業の正社員(10~20%)、大半は単純労働系の派遣か契約社員(50%前後)で、アルバイト(30%前後)も普通。どれも、社会保障が脆弱で昇給もほとんど無く、待遇は中央値以下。不況期の首切りに怯えながら生きるだけで、専門職に関連する業種はまず見ません。それ以上の階層に上がっているのは、ほぼ全て中位以上の大学進学へした学生のみで、他はかなり控えめに書いても「転落人生」です。

少ない給与、乏しい社会保障、成長の無い日々。それが本当に「大丈夫」なのか? 上記のような単純労働は、既に外国人労働者に置き換わっており、日本人が行う必要性はありません。都内にいれば、コンビニの店員に外国人が多いことに驚かされるではありませんか? 先進国日本で生きる以上、ある線引きを越えた立ち位置に就くのは、いまや生存上の義務になりつつあります。目先の死を恐れるあまり当座の誤魔化しだけに終始し、別のタイミングでまた別の死、それも完全に改善策を失った上での死を叩き付けることになるのだとしたら、一体何のための支援なのか?

不登校経験者は、概して他人に甘いですが、同時に自分にも甘くなりがちで、結果、今回のような後輩からの突き上げを食らうことになります。何となくナアナアで、何となく優しくしていればそれで良しとされていた時代は既に過ぎ去っており、それ以上の具体策が求められる時期に差し掛かっていると考えます。

今回の文章の筆者の方は82年生まれで、私と同い年のようです。同じ社会を見て、同じ社会で生きてきた者として、より現実的な視点で後輩を導いてくれることを期待し、メディア関係者としての義務を果たして欲しいと強く願います。

不登校・引きこもりと年齢限界について

前回の話ではありませんが、8月下旬から学校関係で路頭に迷う子もいるそうです。世間では自殺防止をメインに語られているそうですので、CARPE・FIDEMでは少し趣向を変えて、現実案に関する話題を提示しておきたいと思います。

以下は、不登校・引きこもり関係者が、各年齢毎に出来る限界ラインを分かりやすく示したものです。現状で不登校や引きこもりの状況下にある人は、以下を参考にして自身のライフプランの参考にして下さい。

■15歳以下(中学3年生以下)のライン■

○どのように生活していようと問題無し。他人と差が付くことはあるが、人生のその後に関して気にする必要の無いライン。

○多少勉強しておいた方が楽ではあるものの、基本的には「どうぞご自由に」。

■16歳(高校1年生)のライン■

○基礎学力ゼロの人が、東大・医学部等の上位国公立大・学部に現役で入ることの出来る最終ライン。分かりやすく言えば、所謂「高学歴層」に、無勉強の子が現役で入れる最終ライン。

■17歳(高校2年生)のライン■

○基礎学力ゼロの人が、地方国公立やMARCHレベルの私大に現役で入ることの出来る最終ライン。無理をすれば、早慶の科目の少ない学部や上智・理科大も可能。

○中学生範囲の基礎学力を有する子が、東大・医学部等の上位国公立大・学部に現役で入ることの出来る最終ライン。

■18歳(高校3年生)のライン■

○基礎学力ゼロの人が、日東駒専レベルの私大に現役で入ることの出来る最終ライン。

○中学生範囲の基礎学力を有する子が、地方国公立やMARCHレベルの私大に現役で入ることの出来る最終ライン。

■20歳(大学2年生)のライン■

○文系学部進学(入学)事実上のタイムリミット。これ以降で文系学部進学する場合には、就職に大きな影響が出る、或いは、就職後に問題が発生する。進学する場合には、就活先が数段階落ちるか、或いは起業することを前提に活動した方が良い。

○不登校・引きこもり経験者が、これ以降の年齢で文系学部進学する場合、資格取得を除いてほとんど意味が無い。

■22歳(大学4年生)のライン■

○理工系学部進学(入学)事実上のタイムリミット。理工系は年齢上の制限が文系学部より緩いものの、これ以上の遅延はお薦めしにくい。

○これ以上の年齢の場合には、医歯薬獣看等の医療系学部、或いは工学部建築学科等の有効性の高い国家資格前提の学部へ。

■25歳(社会人3年目)のライン■

○医学部等を目指す場合、頭の回転速度等で現役生との差を感じ始めるライン。再受験などの場合は、元が高学歴層であっても、学習期間が延びることを視野にいれるべき。

○また、親の加齢と共に進学が難しくなり始め、一部家庭では進学という選択肢自体が消滅する。

■30歳(社会人8年目)のライン■

○一般家庭において、事実上進学という選択肢が消滅するライン。これ以降で進学出来る場合は、実家が一定以上の富裕層か、本人が高い学力を有するか、或いは本人に社会人経験があって十分な貯蓄が有る場合のみ。

○また、公的機関への就職の一般的限界ライン。

○現実的には、このラインをもって所得水準でミドルクラス以上への上昇はほぼ不可能となる。(親族関係企業へのコネ入社を除き、実例が乏しい。)

■35歳(社会人13年目)のライン■

○ある程度の社会人経験があっても、就職が困難になるライン。10年以上の長期化した引きこもりの場合、アルバイトでの採用も難しくなる。

○また、教育におけるキャリアアップがほぼ不可能となり、この段階での能力値で社会に出ることが、大筋確定的になる。

○大体の引きこもり当事者は、単純労働以外に生計を立てる術が無くなり、社会保障の乏しいワーキングプア化がほぼ確定化する。

■40歳(社会人18年目)のライン■

○両親のうち、どちらかの「死」が発生し始めるライン。状況によっては、経済的に困窮することも多く、親の介護問題等も同時に発生して身動きが取れなくなる。

○基本的に「成長」の可能性が完全に消滅するため、アルバイトで採用されれば大成功。下手にそれ以上は望まない方が無難。

○介護保険の保険料が発生。

■50歳(社会人28年目)のライン■

○所謂8050世代という、引きこもり最悪のパターンを集約した実質的最前線世代。

○ここより上は隠蔽体質が根強くデータが集めにくいが、過去の事例から見るに、今後年金の詐取や生活保護の不正受給、傷害事件等が増えると推察され、既にそれらしい事例が複数発生している。

○「引きこもりの居場所」スタッフや、公的機関の福祉関連部署担当者によれば、当事者本人の能力値が低すぎて、問題が発生しても事実上対処が不可能なケースも多く、既に福祉でのカバーも困難となりつつある。

○親族関係者(主に兄弟姉妹間)への悪影響(誰が引きこもりの面倒を見るのか?)が決定的となるため、引きこもり当事者のいる家庭からの離縁問題が発生しつつある。

 

実際に見て貰うと分かりますが、不登校・引きこもり経験者の場合、成長のチャンスはほぼ20代に集約され、それ以降での成長のチャンスはほぼありません。会社組織に所属し、その内部での成長が継続的に可能である一般社会人に対し、30過ぎの引きこもり当事者は、成長可能性を提供してくれる組織へ参加することが困難になるためです。

既に長期高齢引きこもりの「失敗」は確定しており、同じ行為を続けることの無意味さははっきりしています。

10~20代 通常の社会参画が可能な「成長の年代」

30~40代 社会のボトム層に追いやられてしまう「ジリ貧の年代」

50代以降 社会一般への迷惑・厄介が決定的となる「犯罪者化の年代」

と心得、極力早めの対策を心掛けましょう。

一連の「学校行かなくて良い」ムーブメントは、何かおかしくないか?

良い議論がなされておりましたので、紹介を。

「学校は行くのは当たり前なのか?不登校になったら何をすればいいのか?小籔千豊らが激論」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180823-00010002-abema-soci

https://abematimes.com/posts/4775841

CARPE・FIDEMは不登校や引きこもり経験者向けの塾なので、本来なら、

「つらかったら学校なんて行かなくて良い」

と主張する側に立つべきなのでしょうが、私自身はあまりそうは思っていません。確かに、行くことで「死」が確実に迫ってくるなら行かないで良いと思いますが、そうでないなら「とりあえず行ったら?」の立場です。

叩かれる話題なので押さえて話しますが、結局のところ引きこもりとは、ただの「有能無能問題」だった訳で、社会に適合しやすい有能力者ほど短期間で解決し、適合出来ない無能力者ほど長期間引きこもる現実が強固に存在しています。これは、現行の「8050世代」の当事者を実際に見てみればすぐに分かる話であり、難しい話題でも何でもありません。

ただ、無能力者でも訓練で有能になることは十分に可能で、無能力自体を叩く必要はありません。無能力が害悪なのではなく、「無能力のままでい続けたことが害悪」なのです。しかし、有能になるチャンスは若年期にしかないため、高齢化した引きこもりは結局社会の害悪にしかならない。これが、長期高齢引きこもりの最大の課題となっています。

となると、不登校も不登校で構わないのですが、未来の無能力者を量産するような不登校、つまり、「不登校のまま何ら対策をしないまま放置する行為」は、社会にとっても本人にとっても家族にとっても確実に害悪となるため、その点はきちんとしないといけません。無論、判断は不登校の子本人の意志でもありますが、同時に親御さんや、フリースクール等の支援側運営主体の責任でもあります。

「ローマ人の物語」で有名な塩野七生さんが書いていらした話です。何故か理由は分かりませんが、イタリアの教育現場でも、エリート層程、青少年期に厳しい教育を受け、逆に底辺層ほど「自由」だとか「主体性」等をウリにした緩い教育を受けるそうです。一見すると、「自由や主体性」というお題目は素晴らしく見えますが、実際に蓋を開けてみると、成人した後の後者はほとんど使い物にならず、前者だけが成果を上げていく。つまるところ、若年期の「自由と主体性」は案外価値を持たない。

若年期の「自由と主体性」を生かせるのは、一流校在籍者に多く、底辺校ほど少ないことが経験則的に分かっています。上位校の学生は賢いため、勉強程度はそこそこに済ませ、能力を活かした次のステップに進むことが出来る一方、逆の場合は勉強さえもままならないため、+αもへったくれもない。それ故、上位校ほど自由や主体性をウリにした校風になり、底辺校ほど、体育会系教師が幅をきかせる、監獄的な組織になります。もっとも、監獄化させないと、「動物園」になってしまうという深刻な事情もあるわけですが。

そのような現実がある中で、私個人としては、不登校向けのフリースクールが、どうにも、

「行きたくなかったら行かなくて良いんだよ」

「君が動きたいと思うときだけ動けば良いんだよ」

的な傾向を持っていることに違和感を感じています。実際、死の淵に立たされたような場合はそれでも良いと思いますが、今の不登校ってそこまでギリギリのケースは少ないんですよ、昔と違って。以前書いた、マイルド不登校の話題ですけど。「来たいときだけ来れば良い」で育てられた人間が、本当にその後使い物になるのか、個人的には懐疑的です。監獄のようにガチガチに縛る必要性はどこにもありませんが、日々の小さな我慢を蔑ろにする人間が、本当にまともに生きられるのかと。

二学期が始まる時期は、10代の自殺が増えるそうです。従って、自殺を止める意味での「行かなくて良いんだよ」ムーブメントは、ワンストップ戦略としては優れていると思います。しかし、言いっ放しで放置となれば、これは最終的に家族全体の悲劇を生むだけで、現状での引きこもり手遅れ層の失敗経験が全く活かされないことになってしまいます。

不登校でも良いし、引きこもりでも問題無いのは事実です。しかし、それは各人がそれなりの自立姿勢を鮮明にし、自分なりの生き方を模索して初めて言える話です。「学校に行かなくて良い」と言うなら、その後の方向性も具体的かつ分かりやすく説明するのが、社会の中で子供達に先行する私達の義務ではないかと考えます。

勉強は出来るだけ手を抜いて、しかし成果は確実に。

「手抜き」とは一般的には叩かれる行為かと思いますが、こと勉強については、必ずしも当てはまるわけではありません。ある程度以上の大学になると、自然と学習分量が多くなり、ただ気合いだけで何とかなるものでもないからです。

無論、中途半端な勉強をいい加減にするだけで良いなら、どう学ぼうと勝手ですし、好きにすれば良いと思います。しかし、それなりに意味のある大学や学部に進む場合、学習総量を鑑みれば、勉強の軽重加減を調整することは、それ自体が勉強として意味を持ちます。要点を見抜き、どうでも良い部分を捨て、大切な部分にリソースを割く。言い換えれば、「要を見抜き、他を捨てるという行為」そのものが「学び」になります。

例えば、先日の飲み会の際に来た卒業生のギルマス君なんかは、基本的に勉強は三時間しかしません。と言うか、したがりません。理由は単純。勉強嫌いだから、極力早く終わらせたいだけ。終わったらゲーム。

ただ、彼は医学部医学科の在籍で、成績は非常に良い。勿論、彼自身が賢いのも事実ですが、それ以上に彼は「学び方」が上手い。要点はいくつかあって、

〇一度学んだものは極力忘れないように、復習を効率良く行う。(二度手間は最も非効率)

〇集中出来ないときは、さっさと諦める(「集中力×時間=効率」の論理)

〇勉強しないでも、スコアが取れることが最良。(勉強自体を目的化させない)

等でしょうか。

経験則ですが、例えば、東大や医学部・早慶等の上位層の卒業生には一様はこの傾向があり、勉強を短縮して遊びや休息に利用する時間効率の妙味が生きています。一見すると、「ガリ勉」な真面目君ばかりがいそうな空間で、何故か、

「勉強も出来て彼女もいて、生活も安定して愉しそうなリア充君」

がいるのは、こういう事情があるわけです。寧ろ、ガリ勉は一つ下に見られる位かも知れません。

また、適度な手抜きは、日々の生活に余裕を与えてくれます。特にこれからの季節はそうですが、精神的に余裕が無くなると、まず最初にメンタル面での不調が発生します。それが結果的に学習面での不調や、身体的不調に派生し、気がついたら全ての面で失敗ばかり続くことに繋がります。

逆説的ですが、「極力勉強しない!」という姿勢が、何故か「より良い成績」「より愉快な日常生活」を生み出したりします。真面目であることは大切ですが、真面目とはただの性質であって、真面目自体は目的ではありません。いい加減な集団では別ですが、一定水準以上の群になると、真面目本体の価値は乏しくなります。

今年も、医学部や東大、早慶等難関大学希望者がかなりの数でいますが、進路先に優秀な学生ばかりがいることを考えれば、学習の効率化も自然と大切になってきます。学ぶことは当たり前としても、

「どう学べば、より少ない労力で同じ成果が出せるか?」

についても、是非考えてみて下さい。

人生は机上の勉強ばかりではありません。参加者の子達が、机上以外の学びを自由に経験出来る、本当の意味での優秀な人物になってくれることを期待して。

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