不登校・引きこもりからの大学進学塾

前向きな積極的不登校の長所と短所

一言コメントしないと、「仕事してない」扱い確定な話題がありましたので、仕事します。

「学校に行くのは週1 前向きな不登校を選択したある親子の挑戦」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171206-00000009-wordleaf-peo&p=1

 

要約すると、

1:公教育に疑問を持った親御さんが、

2:学校と学校外の活動を併存させた独自の教育を実施している。

3:しかし、既存の公教育とのすり合わせは依然として難しく、

4:積極的選択肢として成立するには至っていない。

ということでしょうか。

 

個人的には、この種の発想は良いことだと思っています。多様性自体は時代の潮流ですし、しばしば発生する公教育上のトラブルを鑑みれば、ある程度同様の考えが出てくるのは自然なことでしょう。

ただ、私個人に子供がいたとして、実際にこちらの親御さん(佐別当さん夫妻)と同じ事をするか、と問われれば、答えはNOでしょう。

こう書くと、

「君は不登校の子達の支援をしているんじゃないの? 何故に反対?」

と言われそうですが、それなりに理由があります。

理由は簡単で、積極的不登校にも、それなりの「不都合な真実」があるためです。

と言うわけで、今回はちょっとセンセーショナルな欧米風記事に合わせて、

「不登校事業者の私が、積極的不登校を我が子に薦めない5つの理由」

という形でコメントしたいと思います。因みに、内容は比較的マイルドですので、ご安心を。

 

1:積極的不登校最大の敵は、「大人」である

「何言ってんだ?」

と思われるかも知れませんが、積極的不登校の最大の欠点を述べるとするなら、まず第一がコレ、「大人」の存在でしょう。「大人」は、ある部分では、子供にとっての適切な成長の「敵」となります。

ただ、これは所謂公教育で発生している問題点、即ち、

「校内暴力」「性犯罪」「教師の指導力不足」

等といった話題ではありません。積極的不登校は、複数人数からの視線があるため、この手の問題は寧ろ発生しにくいと推察しています。

では、ここでの問題は一体何か? 簡潔に言えば、

「大人は、どうしても甘く接してしまうため、必然的に子供の成長を阻害しやすい」

ということです。

学校環境において、大人は少数派であり、子供が多数派です。しかし、特殊な事情が無い限り、積極的不登校では、大人が多数派、子供が少数派です。よって、その子が相対する人間は「大人」の方が多くなりますが、このような「大人多数」の環境要因が、実は一番面倒なのです。

以前、

不登校からの塾選び

の記事でも解説しました通り、不登校の子には、

「大人や年下とは話せるけど、同世代になると話せない」

という事例が比較的多いのですが、これは、彼等には、

「同級生同士の、手加減抜きの環境に耐えられない」

という事情があるためです。

当然のことですが、自分より年上の存在は、自分に対して甘めに接してくれるため、多少のミスがあっても、

「まあ、年下だしな」

で許してくれます。つまり、自分の精神的バランスにとって、大体の場合、年上は都合が良い。

逆に、自分より年下の存在は、自分よりも幼稚なことしか言わない可能性が高いため、何があっても、

「まあ、年下だしな」

で、許すことが出来ます。つまり、自分の精神的バランスにとって、年下も都合が良い。

しかし、同世代はどうでしょうか? お互いが同じ立ち位置ですから、許す許さないの基準も厳しくなり、何かしらのトラブルがあれば、収拾は困難になりがちです。結果、

「ふざけんじゃねえゴルああああ!」

そこまで悪くなくとも、

「あいつウザいよなヒソヒソ」

のように、関係が険悪になったりします。

まして、思春期特有の「青年期の課題」が山積した十代であれば、この程度も極端になります。

つまり、年上年下との関係と比較して、同世代の付き合いは、難易度が圧倒的に高いのです。

以上のような事情により、周辺環境が大人のみになると、人付き合いの本当に難しい部分を学ぶことの無いまま年齢を重ねるため、難易度の低い人間関係は形成出来るものの、人付き合いの難しい局面になると、致命的に弱くなるという欠点があります。要は、打たれ弱くなるのです。一人っ子や、おじいちゃん子おばあちゃん子が、ある種特有の弱さを持っているのと同じことです。

これを回避するには、同年代の子達の集まりにドンドン関わっていくしかありません。学校環境に負けない位の、同世代の子供達だけの空間へ。

しかし、比較的容易にそれが出来るのは、一般的には塾や民間のスポーツクラブ等に偏りがちで、それなら結局は学校と大して変わらないことになってしまいます。

以上のような事情により、良かれと思ってやったことが、環境次第では、ただ甘やかされただけの弱いだけの子を生み出してしまう可能性がある。これは、まず最初に認識しておくべきでしょう。

 

2:積極的不登校は、「金」がかかる

東京都生活文化局の資料によると、一般的な学校運営(高校)にかかる費用は、概算で100万円前後だそうです。因みに、私立は公費が40万円、入学金を三年間で平均すると、私費で75万円で、合計115万円前後。

ざっと計算しても、一般的な高等教育には、最低でも年100万円前後はかかると見て良いでしょう。

ただ、これは学校教育のように、規模のメリットが効果的に効いていて、の話です。

実際にやってみると分かりますが、飲食店ほどではないにせよ、教育関連事業で高収益を上げるのはかなり難しいです。一人で教えることが出来る数には限りがありますので、生徒が増えれば、一定数の人件費がどうしても必要になりますし、教師や生徒が一カ所に集まるため、不動産の賃料も高くなりがちです。つまり、固定費の増加は、回避しにくい大きな課題と言えます。

どうしても収益を上げるなら、1(教師一人)×1(生徒一人~数名)のモデルから、1(教師一人)×n(生徒多数)のモデルに切り替えるしかありませんが、それでは学校とあまり変わりません。衛星通信授業のような形式ならそれも可能ですが、何のための積極的不登校なのか、元も子もありません。

そのため、ピンポイントの個人に対し、ある水準以上の教育を行おうとすると、どうしてもコストがかかります。自宅で学習すれば不動産の費用はかかりませんが、家庭内だけで全て済ますのも難しい話です。家庭教師を頼むにしても、低レベルな教育なら安くて済みますが、そこそこのレベルを要求するとなると、3,000円/時でも寧ろ安い位でしょう。

結果、学校と同程度レベルの教育を家庭で維持しようとするなら、親が先生役をしない限り、投入金額は軽く倍になります。これに、課外活動や体育、文化芸術的要素を追加すると、三倍程度になっても文句は言えません。

と、言うわけで、お金持ちなら何をするにも自由だと思いますが、一般家庭では事実上不可能となります。

そもそも論として、公教育が全ての先進工業国で遍く普及しているのは、産業革命以降の社会では、口伝による家庭教育に限界が発生したのと同時に、生産活動が農林水産業を基盤とした第一次産業から、製造業等の第二次産業、サービス業等の第三次産業へとスライドしたことから、一定以上の識字率や定量的思考が必須となったためです。折しも植民地獲得の帝国主義が始まったあたりですから、国民そのものが無学無能では国が滅びます。そのため、国側から大なり小なり教育に投資をするのは、国家運営の観点から見ても、十分理にかなっていたわけです。

因みに、それ以前の段階では、一部例外を除き、下層階級民に教育なんてものは無縁で、中流階級以上、主に有力商人や貴族階級でも、家庭教師を雇って師弟の教育を行うのが普通。公教育自体が、ほとんど存在しませんでした。

となると、現在提案されているHomeschool movement「家庭内学習推進運動」は、ある種の「貴族発想」となるわけで、お金がかかるのも当然と言えます。(参考までに、wikipediaですが、英語読める人は、以下のリンクが参考になるかも知れません。)

「Homeschooling」

https://en.wikipedia.org/wiki/Homeschooling

 

3:積極的不登校での「マイペース」は、視野狭窄に陥る可能性がある。

積極的不登校の良さとは、その子の良い部分を効果的に伸したり、苦手部分をその子の速度に合わせて補強したりすることが出来る点にあります。或いは、学校で扱っていない方面の教育に手を広げることが出来る点にあります。変わった事例ですが、私の知る中では、F1レースの方向に進んだ人がいましたね。確かに、これは学校では難しい。

ただ、経験則ですが、主に学習面で「マイペース」を好む子は、周囲の子達の進捗を気にしない傾向にあるため、気がついたらとんでもない位学習が遅れてしまうことがあります。「マイペース」には、良い面も悪い面もあります。良い面は「手堅い学習」ですが、悪い面は「学習の遅延」です。よって、この点は、親が主体的に学習速度を配分しなくてはなりませんが、その際には、親自身がそれなりの高等教育を受けており、学習内容の全容を把握している必要があります。無論、これは学習以外の全ての面でも言えることです。学校と違い比較対象が少ないため、「変なマイペース」が普通になってしまうのです。

実のところ、積極的不登校に近い形の教育を行っている家庭を、私もいくつか知っています。ただ、上手く機能している家庭もありますが、それは、経済的基盤が強く、親側で教育の全体像が見えている場合のみで、他は、既存の学校教育の負の面だけを強調し、逃げるようにして家庭内での教育を推進しているケース、言うなれば、「ルサンチマン的不登校教育」です。

積極的不登校を選ぶ場合、大切なのは「周囲を常時確認し、極端な遅延や偏りが発生していなか確認すること」です。無論、吹っ飛んだ天才にはその必要もありませんが、大多数のお子様は普通かチョイ上位の能力値しかありません。標準ライン確保は、特に気をつけましょう。

 

4:積極的不登校の水準は、結局親の包括的能力に依存する

子供がある程度(最低でも12歳以上、理想的には15歳以上に)成長してから、自身の手で積極的不登校を選ぶのは、アリです。未熟とは言え、自己判断と、結果の吟味が出来ますし、それを引き受ける覚悟も養われるでしょう。デメリットもありますが、メリットも同じように大きいです。

一方、子供が小学生以下の年齢で積極的不登校を選ぶ場合は、成否は全て「親」にかかってきます。反抗期を迎える前の幼少期の判断は、基本的に親の側の意向に沿った形になりやすいためです。

親「(子供の将来を思って)ピアノやりたい?」

子「(やりたくないけど、やらないと怒られそうだから、仕方なく)やりたい」

しばらくして、子供がサボり始める。

子「ピアノ行きたくない。つまらない」

親「自分でやりたいって行ってたじゃない!」

子「そんなこと言ってない!」

親「???」

なんて状況はよくある話ですが、ここでも話は同じことです。

親の側で子供の性格を見抜き、それに適した教育をカスタマイズ出来るなら、積極的不登校も十分にアリだと私は思います。が、それが出来る親御さんは、実質的には少数派です。条件的には、

A:所得水準が十分に高い。(子供の教育に、最低でも年間200万円程度かけられる。)

B:親のどちらかが家にいる時間が十分に長い。(専業主婦・主夫など。)

C:子供の癖や性格を的確に見抜き、方向性を定めるのが巧みである。

D:親の教育水準が十分に高い。(高校程度までの指導は無理なく出来る)

等が揃ってないと、結局はどこかで歪みが出てくると思います。

また、子供はどこかで反抗期を迎えますが、親が主体となった教育の場合、子供の反抗期を乗り越えられるかどうかが少々微妙です。私もよく、

「うちの子、私達(親)の言うことは全然聞かないんですけど、先生の話なら聞くんです。だから、何かあったらお願いしますね」

なんてお話を親御さんからされるのですが、これなんか分かりやすい一例でしょう。

親と子の関係が上手く行っているなら良いのですが、そうでない場合、家庭内での教育が実質破綻し、結局は外部委託が大きくなり、学校へ行くのと変わらなくなってしまいます。

「中学校受験は親の受験」

なんて言われたりするようですが、これは小学生の判断力が、そこまで高度に期待出来るものではないことの証左だと思います。結果、小学生以下での積極的不登校とは、そのものつまり「親の判断能力こそ全て」となるのでしょう。

 

5:積極的不登校は、変に「宗教化」する懸念がある

何故か、不登校や引きこもり業界には、「教祖様」と、それを崇め奉る「信者」みたいな変な人達が一定数います。まあ、どこでもいるのかも知れませんが、ここにもちゃんといます。

教祖様が発生する理由ですが、恐らく、不登校とか引きこもりの問題が、親御さんや当人にとっての「どうしようもない困難」となっているからでしょう。そのため、「問題を解決出来る人」=「神様」的な発想に陥りやすいのだと思います。個人的には不可思議な話だと思いますが、教祖様になりたい人も、教祖様にすがりたい人も、いつの世も一定数いますから、まあ、仕方ないのかも知れません。

消極的不登校には、以上のような事情がありますが、積極的不登校にも、同様の事態が発生する可能性があります。キーワードとしては、「慈善系」「ヒッピー系」「左派系活動家」「貧困層」「無能力者層」でしょうか。(この辺の話は、また別の機会に書きます。)

前にもどこかで書いたかも知れませんが、現在の長期高齢引きこもり周辺の親達やその支援者は、60年代の安保闘争で左派系活動家だったり、或いはその後も似た傾向を引きずった人達、つまりは、「自分達で責任取ることの出来ない人達」が中心になっています。責任取れる人達は、先に引きこもりから抜けてしまってるので、そうでないのだけが残っている、と言えば分かりやすいでしょうか。(一部、先天性障害の人達もいますけど、それは疾患上の問題なので別ですね。)

宗教化の必要条件は、

「困難(貧困・疾病・失恋・死別・その他絶望的環境)」

「閉鎖空間(一般社会からの視線が皆無であること)」

「カリスマ的指導者(人を惹き付ける何らかの魅力を持った人物)」

で、最低でもこの三つが揃わないと機能しませんが、既に長期高齢引きこもりの周辺はこの傾向が顕著です。行き詰まった状態がある種の互選で「教祖様」を生み出し、結果的に宗教化してしまうのだと考えられます。

これと同様に、積極的不登校は宗教化する懸念が部分的にあります。ただ、これは積極的不登校の成功者から発生するのではありません。彼等の目的は、あくまで師弟の「教育」であり、社会への「教化」ではないからです。勿論、一部には変なのも出るかも知れませんが、余程の暇人出ない限り、相対的に見て被害も軽微でしょう。

問題なのは、積極的不登校を選択したものの、資金不足や親の能力不足、判断ミス、状況変化に伴い、積極的不登校が失敗した場合です。この段階で、既に「困難(教育失敗)」と「閉鎖空間(家庭周辺のみの環境)」が発生していますので、後は「カリスマ的指導者」が発生するだけで比較的容易に宗教化します。

この場合のカリスマ的指導者とは、最初期としては「積極的不登校の成功者」になります。まだ、積極的不登校の成功事例にすがりたい段階なら、こちらに寄ります。が、大体は上手くいかないでしょう。

それが100%不可能となったとき、次に来るのは、「一般的な学校教育」への傾倒でしょう。ただ、これは元々公的なシステムですので、宗教化することなく、大体がここで止まると思います。要は、公教育がセーフティネットとなっているわけです。

とは言え、元々学校に慣れていない子の場合、公教育での経過が良いかどうかは微妙です。ここから転落した場合、ルート的には消極的不登校と同じ状況になりますが、経歴が揺らいでいる分、普通の不登校よりもやりにくくなります。

結果、ここで外すと、長期高齢引きこもりルートに陥ることになり、最後の宗教化が始まります。この最終段階での教祖様は、要は「傷の嘗め合い」を許してくる人で、まさに本格的新興宗教となるでしょう。

要点をまとめると、積極的不登校は、公教育でのセーフティネットから外れると、今の長期高齢引きこもりとそんなに変わらない状況に転落する可能性が結構高い、ということです。私自身が引きこもり最下層の破綻を知っているので、お薦めしにくいわけです。

 

消極的不登校、即ち、今日の一般的な意味での「不登校」は、現在の学校環境に適合しないために発生する「やむを得ない事例」です。彼等にとって、学校という選択肢はすでにあり得ないものとなっており、それ故、別の手段が消極的に模索されていると言えます。実際、CARPE・FIDEMも、そのような子達の要望によって生まれています。

私も、まだ18歳未満の参加希望者の子達には、必ず、

「学校という選択肢があるなら、必ず一度は考えるように。ここはいつでも来られるから」

と話しており、積極的にここへ来るよう薦めることは、まずありません。私自身、行けるなら学校が一番だと思っているからです。(教育困難校のような底辺校は別です。あれは人格壊しますので。)

私自身は、一般的な教育しか受けていませんし、進学も一般的な通常のものでした。そのため、学校の良さも悪さも最低限知っていますが、その上で、やはり現行では通常の公教育がベストな選択肢だと言わざる得ません。

学校が一番だと思えなくなったなら、そのときに別法を考えれば良い。それがあるべき姿だと思いますし、最終的には、CARPE・FIDEMのような塾が必要なくなるように、公教育が次世代型に進化するのが望ましい姿です。(そうすれば、私も別の事業が出来て万々歳だから、というのはナイショです。)

とは言え、今回の佐別当さん一家のような姿勢が悪いとは少しも思いません。何事も、先駆者は多大な苦労をするものですし、社会からの風当たりが強いのも当たり前です。しかし、あくまでそれを理解した上で、自己責任で行うなら何も問題はありませんし、いつか全く新しい教育システムが生み出される可能性さえあります。

既存の教育システム以上のものを構築することが困難なのは、現実的には事実です。ただ、公教育の現場でも、変化の必要性は感じているようですし、その兆しも実際に見えます。時代に即した変化の一例として、公教育に良い変化を促すことが出来るとするなら、その努力も無駄にはならないでしょう。個人的には、このような姿勢は全面的に応援したいと思っています。

あえてやって欲しくないことがあるとするなら、現在の一部の長期高齢引きこもりみたいに、

「行政は自分達の言うこと聞けゴルァ!」

とか

「自分達のために金出せオルァ!」

とか

「社会がおかしいんじゃボケェ!」

みたいな、最低限の常識さえわきまえない、下品な存在になって欲しくない位でしょうか。こうなると、そもそも社会全体からの指示を得られなくなってしまいますし、迷惑にしかなりませんので。

 

反対意見も多々あるかと思いますが、佐別当さん一家に、周囲の人達からの好意的な支持が生まれ、結果として新しい教育のあり方が誕生することを楽しみにしております。

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