不登校・引きこもりからの大学進学塾

まことに申し訳ありませんが、分校を出す予定はありません。

今に限った話ではなく、CARPE・FIDEMは、各都道府県から通学希望の依頼を多々受理しており、良くも悪しくも全国区の塾になっています。所在地は都内ですので、遠隔地在住の場合は、通学に引っ越しを伴うことも度々なのですが、多大な労力をかけてまでお越し頂ける点を鑑みれば、高い評価を頂いているとも言え、その評価には「感謝」としか表現のしようがありません。

ただ、わざわざ引っ越しを検討しなくてはならない、やむを得ぬ事情もあるようです。

「地方都市だと高校生向けの予備校はあるけど、引きこもりや不登校向けの塾がない」

「仮にあったにしても主要都市にしかなく、現実的に通えない」

「通えたにしても、教える側のレベルが低く、教育の質が悪い(まともな大学に行けない)」

「不登校や引きこもりは無能力である」という前提が昔からあるため、学習自体がほぼ想定されておらず、受け皿を作る意識が乏しい点が一つ。仮にアッパークラス向けの受け皿を作っても、採算性の問題から、地方都市では同等事業の継続が困難である点がもう一つ。そして何より、指導側のレベル維持が困難である点が、最後の一つ。

結果、ある程度の人口を見込める都市部ならまだしも、小規模な自治体在住の方の場合には引っ越さないとどうにもならないわけで、これが現在の「引っ越ししてまで」という部分に繋がってきます。

そのためか、毎年必ず、

「仙台校舎とかないですか?」

「九州に同じような塾を作る予定は無いですか?」

「作る予定が無いなら、CARPE・FIDEMさんと同じシステムの塾はありませんか?」

のような質問が定期的にやってきます。

ただ、申し訳ないことに、その予定はありませんし、今後も作らないと思います。仮に大阪のような大都市であっても、分校を作ることはないでしょう。

理由はただ一つ。「教育の質が落ちるから」

実際に教育の現場で仕事していれば誰でも分かることですが、教育のような人間絡みの業種は、急拡大が非常に難しい。授業一つ取っても、事前の打ち合わせはかなり丁寧に行わないとダメなことが多いですし、適当にやればやったで、学生側の理解が疎かになります。

分校を設置すれば、当然のように教える側の数も増やさなくてはなりませんが、新任講師との打ち合わせや調整にかかる労力は、そうそう生やさしいものでもありません。講師一人との打ち合わせだけで何十時間も掛かりますが、寧ろそれ位が普通です。ただ学習内容を伝達するだけでも大変なのに、不登校や引きこもりといった問題が付加されているなら、その負担は更に増加します。CARPE・FIDEMは基本的に縁故採用の塾で、採用は全て卒業生から。余程の事情や経験が無い限り、部外者を雇い入れることはしませんが、これには、上記のような事情が絡んでいるためです。

つまり、本来不登校・引きこもり当事者の教育においては急拡大などあり得ず、仮に急拡大しているとするなら、それは品質を下げて、レベルの低い薄いサービス内容で誤魔化しているだけとなります。しかし、私はそういう下品なことはしたくないのです。

ご挨拶にも書いてありますが、私の運営姿勢の根幹は「個の尊重」です。世界でみればベトナム戦争まで、国内で見れば高度経済成長期以前までは、人間はパーツとして量産され得る存在で、「個」もへったくれもない時代だったかも知れません。しかし、先進国運営も安定期に入った日本において、人間一人一人の重要度は一桁二桁違います。

確かに、ご希望の通りシステムだけ抽出し、人任せにして、それっぽい分校を作ることは可能でしょうし、場合によっては、それで助かる人もいるかも知れません。しかし、先進工業国で必要となるのは能力的に高水準な人間であり、多くの視線から丁寧に考察され、自分自身も丁寧な考察を加えることで完成する、自我の確立した存在です。運営側の論理で蔑ろに扱われ、結果として低品質な教育やアバウトな友人関係しか構築出来ないとするなら、何のための教育システムなのか。

教育の面倒なところは、労力をかけようと思えばいくらでもかけられる一方、手を抜こうと思えば、いくらでも手を抜ける点にあり、運営側がいい加減に誤魔化そうと思えば、ピンハネまがいのことも容易に出来ます。しかし、そのツケを払わされるのは、運営側ではなく、学生側です。おかしな話ですが、結局はこれが現実です。

私がCARPE・FIDEMを拡張するしないは、一つには収益性の問題かも知れませんが、同時にそれは私の誠意の問題でもあります。量だけ増やし、低品質な教育を拡散させようとは考えていません。

総合的に判断した結果、私は自分の目の届かない環境を複数設置し、何が何だか分からない中で、蔑ろにされる学生が増えることは望んでいません。ただでさえ不登校や引きこもりで苦労しているのに、運営主体の都合で振り回されては、それこそ気の毒です。

少なくとも、私はここに来る参加者には豊かな人生を送って欲しいと思っていますし、何十年後にも、1人1人の顔を思い出しながら、お酒を囲んでその人生の成果を聞いてみたと思っています。ハコモノだけ用意して、「後は勝手にやってね」というつもりも毛頭ありません。

以上のような事情により、分校をご希望の皆様には、より良いお返事が出来ず申し訳ありませんが、品質維持のために、私の我が儘を通したいと思います。是非とも「無理矢理に」ご了承下さい。その代わりと言っては何ですが、お越し頂いた際には、良質な教育と大変愉快な友人関係が築けることをお約束致します。

「妄想+傲岸不遜=継続的失敗」

深代惇郎さんが天声人語の執筆をされていた頃はまだ面白かったのですが、昭和後期から平成入ってからの朝日新聞は、内容がつまらなくなっただけでなく、悪質な作話やファンタジーばかり書く上に、人に迷惑かけようが過ちを犯そうが全くと言って良いほど謝罪しないため、すっかり一般読者からの指示を失ってしまっています。

私も、中学生時代に読んだ深代さんの天声人語をきっかけにして、その後の天声人語も継続的に読んでいたことがあったのですが、読み進むにつれ内容の劣化も同時に進み、最終的にはあまりの品質の悪さに読むに耐えなくなって、結局全て破棄したことがありました。深代さんの件で期待が大きかっただけに、当時の裏切られた感じは今でもよく覚えています。アレ、一体誰が書いてた(る)んですかね?

子供だったせいもあり、この品質の悪さの根源はその後もしばらく理解出来なかったのですが、今から振り返って見ると、相手を騙すつもり満々でファンタジーを書こうとする姿勢の薄汚さが見え隠れしていたのかも知れません。

以前、同期との飲み会で、

「朝日新聞では、ファンタジー作家が一番出世するんだぜ?」

「マジか! なら、役員も社長も会長もラノベ作家が独占だな!」

なんてギャグを言っていたのがいて、皆で大笑いしたことがありましたが、若年層を中心に同様の意識を持つ人は非常に多いようで、朝日新聞が現行40代以下の支持を取り付けることは最早不可能でしょう。少し前には、新卒東大生の朝日新聞就職者数がゼロなんて話もありましたが、沈む船を避けるのは当然のことだと思います。

何事も「間違ったら反省し、すぐに原点に戻れ」が鉄則で、修辞で表層を取り繕っただけの壁新聞から立ち上がり、再度品質を改善するには、経営側が泥水啜ってでもジャーナリズムの本来の仕事である「事実の究明」を出発的に出直すしかありません。何を書いても、

「どうせ、朝日が書いたんだから嘘だろ」

なんて言われる現状は、かなり意識して変えないとどうにもならないと思います。

 

と、朝日新聞の悪口ばかり書いているようですが、中には誠意のある記者の方も必ずいらっしゃるはずで、私個人としては、今回の記事が朝日お得意の「作話」でないことを祈りたいところです。

「話しかける」少しずつ…引きこもり20年の女性が接客

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180722-00000005-asahi-soci

https://www.asahi.com/articles/ASL7N5VV0L7NPLZB01Y.html

本来、支援というのは記事のように、つまり、

「当事者は自立の意志を持ち、その自立に向けて周囲が手助けする」

べきであって、この発想を除外して支援などあり得ないと思います。

以前から話していますが、国や自治体に圧力をかけて金を引き出そうとしたり、自分達は何も変えようとせず、社会にばかり変化を強いる胡散臭い親の会が引きこもり業界には一定数いて、そのような依存癖のある人達が発言権を持つようになったために、現行の長期高齢引きこもりは、ほぼ完全に改善のタイミングを失いました。朝日新聞同様自業自得であり、「自立」を軽んじた愚かしさの結果なのですが、今後は、

「いかに長期高齢引きこもりが、社会に迷惑をかけないようにするか」

という後処理問題がメインとなるでしょう。結局は、自分達の失敗のツケを、自分達で払わされるときが来ただけのことですが、しかしそれでも尚、この記事のような動きが少しでも出てくるのは素晴らしいことだと思います。

 

現行の長期高齢引きこもりは、兎に角アルバイトで自分の生活資金を確保するだけでも100点満点です。無理矢理ハードルを上げる必要もありません。親亡き後も、世間様に迷惑をかけず、自分のことは自分でやる。これだけで十分です。

今思えば、「依存癖のある親の会」も「朝日新聞」も、どちらも自分達の短所に目を瞑り、自分達の論法だけを掲げて社会の状況を見ようとせず、結果社会全体から見放されたという点では、全く同一の行動を取っていると言えます。自分達だけが正しく、無謬でいられるなどあり得ません。間違いの可能性はいつでもありますが、間違ったら間違ったで、

「すみません。ごめんなさい。次は間違えないようにします。ご協力お願いします」

の一言がきちんと言えれば、普通は大体が許してくれるものです。それをせずにつけ上がり驕り高ぶり、不遜なことをするから、そっぽを向かれる。物事が長期間改善しないのは、ほぼ100%「反省しない愚かしさ」が原因ですが、流石にそろそろ理解しましょうよ、どちらもいい歳なんですから。

「自分の人生(記事)には自分で責任を持て」

「自分の食い扶持(発行部数)位、社会に頼らず(押し紙に頼らず)自分で稼げ」

この二点を基盤に、依存体質の親の会が無くなり、朝日新聞が自省し、自立優先の意識が芽生えてくれることを期待するばかりです。より良い社会が各人の謙虚な自省から生まれるのは、個人法人の別なく、誰に対しても言えることです。

引きこもりのウソ・ホントその1「引きこもりは本当に心優しいのか?」

たまたま寄ったバーで知り合った人に、

「引きこもりの人達って優しい人多いって聞きますけど、本当ですか?」

という質問をされたので、ついでにこちらにも書いておきます。

結論から言えば、ほぼ100%ウソです。引きこもり心優しい説は昔からありますが、実際は普通の人達と何ら変わりありません。引っ込み思案な人が多く控えめなため、上っ面だけ見れば「優しく」見えることもありますが、これは観察者側が実態を把握しきれていないだけのことです。

しかし、「引きこもり心優しい」説は、発生するだけの事情が昔からありました。

A:「社会の落伍者」という立ち位置故、立ち直らせるためにも、周囲(主に支援者)は彼等を好意的に評価せざる得なかった。

B:しかし、無能力者の多い引きこもりを好意的に評価するには、「優しい」という抽象的で、誰にでも当てはまるような曖昧な表現しか他に手段がなかった。

C:また、精神的自立が遅れ、自己定義の乏しい引きこもり当事者も、「優しい存在」と定義付けされた方が楽だった。

D:何より、周囲に優しくしておけば自分が叩かれる可能性も下がるので、自己防衛を図りたがる当事者としても「叩かれないようにするため」に、優しい風を装った。

E:親の側でも、「うちの子は引きこもっているけど、本当は優しい子なんです!」とか何とか言っておけば、社会的体裁を最低限繕うことが出来た。

以上のような事情により、「引きこもり心優しい」説は、親・本人・支援側の全てにおいて都合の良い定義(落とし所)だったため、特に引きこもり本人がどうであろうとも、「引きこもりは心優しくなくてはいけなくなった」訳です。まあ、半ば強制的にそういうキャラに仕立て上げられたというのが、幾分真実に近いでしょう。

関係者全員がそう言っているのですから、実態なんか出ようがありません。何も知らない人からすれば信じるしかないわけで、事情など知る由もありません。

で、

「そうか~。引きこもりは優しいのか~。優しいから汚い社会が辛いんだね~。大変だな~」

とか思ってしまう訳です。これが悲劇の始まりです。どんな悲劇かは、最早言うまでもないでしょう。

個人的な経験則ですが、引きこもりで「優しい僕」「優しい私」のような自己定義に塗れている人は、大体が何も出来ない無能力者で、かつ長期化する傾向にあります。無能力故、まっとうな自己定義が出来ず、「優しい自分」という幻想にすがりたくなるのでしょう。

無論、若いうちは過ちもあるものですから、10代前後ならそれでも良いのですが、30歳超えて、40歳50歳にもなってもまだ「優しい僕」「優しい私」なんて言ってるのは、呆れる通り越して、最早ただ気持ち悪いだけです。

上記のような事情が分かっていれば、不利益にしかならない「引きこもり心優しい」説なんて主張するはずもなく、事情が読めるだけの頭のある人達は、まず「引きこもり優しい」論には与しません。逆に、主張したがる人達は、親にせよ本人にせよ支援者にせよ、最初から問題を解決する能力が無い、或いは解決するつもりの無い人達なので、グダグダと現状維持を続けることしか出来ません。ただ、どうにもその矛盾に気付かない残念な人達もいるようで、単純なはずの引きこもり問題を、過剰に困難なものにしています。

「自分達のような優しい人間が報われないなんて、社会がおかしいに違いない。社会が変わるべきだ!」

「弱者に厳しい汚い社会で上手くやっているなんて、成功者は悪質な人間に違いない!」

「汚くなる位なら、例え社会に出られなくても、綺麗なままの方が良い」

かくして、自称「弱者と社会正義を守る、優しい引きこもり」の歪んだメンタリティが形成され、それは動かざること岩の如し、となるわけでございます。

批判されるのであまり言いたくないですが、引きこもりの長期化は、半分以上が人災です。先人の話を聞く限り、もうこれは二十年以上続いているようなのですが、災害を起こす人達はその間何も変わっていません。その上厄介なのが、その人災を起している本人達(親・当事者・支援者)の三者全員が自分達が原因だと気付いてない場合で、更にタチが悪くなると、自分達の正当性を主張したいがために、その人災をまだ間に合う若年引きこもり家庭にまで伝播させたりします。ここまで来ると、最早善意を装った犯罪に近いと言っても過言ではありません。

「引きこもり心優しい」論の背後には、このような三者三様の利権にも似た、ズブズブでドロドロの事情があります。無意識のうちに進む「心理的談合」とも言え、長期高齢引きこもり周辺に渦巻く屈折した集団病理です。全く意味の無い行為ですので、まだ間に合う人は、典型的な失敗例の一つとして意識しておきましょう。

仮に心優しい引きこもりがいたとしても、その比率は社会一般のそれと何も変わりありません。引きこもりだけが特段優しいなんて話は、限りなくウソに近いのです。

 

結論:「引きこもり心優しい」論は、そうなってくれると都合の良い人達が適当に作り上げた作話である。

男女比率が逆転・・・・・・だと?

まさか、と言うか何と言うか、ついに一部のクラスで男女比率が完全に逆転してしまいました。これまで、CARPE・FIDEMは男の子が多数派で、女の子が少数派の「男子校」的アバウトな組織だったのですが、今年度はどうも雲行きが怪しく、新規参加の男女比率はほぼ同数となっています。理由は全くもって不明ですが、何かあったのでしょうか? 総数としては、まだ男の子の方が多いのですが、今後はまた微妙な情勢です。

個人的には、経済的に自立し、強い力を持つ女性が増えることには大賛成なので、自立を最重要課題とするCARPEに賛同する女性が増えるのは大変喜ばしいことなのですが、実際に自分の周辺環境で女子比率が増えるとなると、これは・・・・・・。ただでさえ肩身狭いのに、これ以上肩身が狭くなるのはツライものがありますのう・・・・・・。どの世界でも、女子は強いからなあ・・・・・・。

同世代の友人や、ご近所のお父さん達と話をしていても、

「加齢臭で文句を言われる・・・・・・。好きで加齢してるんじゃないのに」

とか、

「デブ許さない。痩せないと離婚」

とか、

「娘の態度が冷たい。昔はあんなに優しかったのに・・・・・・」

みたいな話がモリモリ入って来て、戦慄さえ覚える今日この頃。男性諸氏はいかがお過ごしでしょうか?

多分、もう既に男性が強い時代ではないのかも知れませんが、弱い立場なら弱い立場なりに、寄せ合いへし合い生きて参りましょう。私も、「気がついたら頭の良いやり手の女性経営者に、代表の地位を追われていた」なんてことがないよう、日々の義務に身を引き締めたいと思います。

7月22日(日)まで、面談日時に制限が掛かります。

事前にアナウンスしていた通りなのですが、今年度の参加者数は例年よりも多く、クラスによっては既に受け入れがほぼ不可能な状態になっています。また、模擬試験実施に伴い、授業が段階的に試験準備入りするのに加え、新規参加の面談が重なっている関係で、対外交渉に充てる時間が全体的に不足気味です。

以上のような事情により、7月22日までの面談時間に制限が発生しており、面談可能日時が数パターンしかない可能性があります。お手数ですが、新規参加希望の方は以上をご確認の上、面談予約は余裕を持ってお申し込み下さいますようお願い申し上げます。

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